金石昭人
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金石 昭人基本情報
国籍
日本
出身地岐阜県加茂郡白川町
生年月日 (1960-12-26) 1960年12月26日(63歳)
身長
体重197 cm
86 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1978年 ドラフト外
初出場1982年6月25日
最終出場1998年10月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


PL学園高等学校

広島東洋カープ (1979 - 1991)

日本ハムファイターズ (1992 - 1997)

読売ジャイアンツ (1998)

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金石 昭人(かねいし あきひと、1960年12月26日 - )は、岐阜県加茂郡白川町出身の元プロ野球選手投手)、解説者実業家
経歴
プロ入り前

PL学園高校では1年上に米村明、同期で後にプロでも同僚となる西田真二という好投手がいたために大舞台を踏む機会が無かったが、2年次の1977年には春季近畿大会府予選決勝で先発を任され、山本昭良香川伸行を中心打者とする浪商を大差で降す。3年次の1978年は春夏の甲子園に出場し、春の選抜では準々決勝で箕島高に敗退するもベンチ外であった[1]夏の選手権は決勝で高知商を降し優勝を果たすが[2]、自身の登板機会はなかった。他の高校同期に木戸克彦谷松浩之がいた。同年オフにドラフト外広島東洋カープへ入団する[3]が、この入団には伯父の金田正一及び叔父の金田留広の口添えがあった、と後に本人が述懐している[4][5]。ちなみに3人で通算600勝している[注 1]
プロ入り後

プロ4年目の1982年に一軍初登板。

1985年に一軍に定着。同年4月18日の対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)では6回4失点でプロ入り7年目で初勝利[6]、同月25日の対横浜大洋ホエールズ戦(横浜スタジアム)では9回2失点で初の完投勝利を飾った[7]

1986年には195cmという飛び抜けて恵まれた身長と、その身長が生み出す落差あるフォークを武器に8月29日の対中日ドラゴンズ戦(広島市民球場)では延長12回途中まで投げ、1失点でプロ入り初の2桁勝利を挙げた[8]。10月5日の対中日戦(広島市民球場)[9]、同月10日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)では2試合連続で完封勝利を飾った[10]。シーズンでは26試合登板・12勝6敗・防御率2.68という記録を残し、2年ぶりのリーグ優勝に貢献。西武ライオンズとの日本シリーズでは10月23日の第3戦(西武球場)に先発して8回まで好投、同月27日の最終第8戦(広島市民球場)にも先発し、3回に相手先発の東尾修から自ら先制2点本塁打を放つも、秋山幸二に同点2点本塁打を打たれてその際に話題となったバック宙ホームインをやられ、8回にはジョージ・ブコビッチに決勝二塁打を喫して敗戦し日本一はならなかった[11]

1989年に7勝1敗の好記録を残すが、故障もあって必ずしも満足な成績を残すことができなかった。

1990年、6月2日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)に先発した際、ウォーレン・クロマティ敬遠球を打たれ、外野手・西田の頭上を越えるサヨナラ安打を打たれた。この試合では植田幸弘が捕手を務めていたが、出場しなかった達川光男に「ちゃんとお前が外さんからこうなるんじゃ」と厳しく説教された。

1991年の西武との日本シリーズでは3試合にリリーフ登板するが、10月26日の第6戦(西武)では6回に打ち込まれて敗戦投手となる。同年のベースボール・マガジン社のプロ野球選手名鑑では195cmであったが、後に身長はプロ入団後も2cm伸びたと語り、公称も197cmになった。同年12月16日に津野浩との交換トレード日本ハムファイターズへ移籍[12][13]

1992年、4月8日の対近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)で移籍後初勝利[14]、7月11日の対千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)では1点リードで迎えた6回裏二死一、二塁の場面で4番手で登板。7回裏に青柳進に逆転2点本塁打を打たれるが、9回表に味方が2点取って逆転し勝利投手で、両リーグで10勝一番乗りとなった[15]。最終的には自己最多の14勝を挙げ復活を果たす。

1993年には開幕投手がキャンプで内定していたが、オープン戦中に行われた福岡ドーム完成記念のパ・リーグトーナメント対ダイエー戦にて吉永幸一郎が放った打球を右足に受け右足第二中指を骨折してしまい出遅れる。復帰後1試合だけ先発したが、当時の抑えを務めていた新人の山原和敏が故障してしまいリリーフが手薄だったチーム事情から抑えに転向して9勝13セーブ、防御率2.09と好成績を残し田村藤夫と共に最優秀バッテリー賞を受賞。

1994年はチームが低迷し登板機会が限られる中でも18セーブを上げるなど、安定した成績を残した。

1995年にFA権を取得して日ハムに宣言残留[16](その結果年俸は初の一億を越えた)。日本ハム時代は名護キャンプの宿舎の部屋を選手やスタッフが集まれるように開放し、岩本勉片岡篤史曰く、わざわざレンタル冷蔵庫を借り、大量の酒を用意するなどの念の入れ様であった。

1996年は前年から台頭してきた島崎毅とのダブルストッパーを形成し、終盤のブルペンを支えるなどチームの2位に大きく貢献した。しかし8月末の登板を最後にこの年は終わった。


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