金田正一
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金田 正一
基本情報
国籍 日本
出身地愛知県稲沢市
生年月日 (1933-08-01) 1933年8月1日
没年月日 (2019-10-06) 2019年10月6日(86歳没)
身長
体重184 cm
73 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1950年
初出場1950年8月23日
最終出場1969年10月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


名古屋電気高等学校

享栄商業高等学校 (中退)

国鉄スワローズ (1950 - 1964)

読売ジャイアンツ (1965 - 1969)

監督歴


ロッテオリオンズ (1973 - 1978, 1990 - 1991)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年1988年
選出方法競技者表彰
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金田 正一(かねだ まさいち、韓国名:金 慶弘〈キム・ギョンホン、???〉、1933年8月1日 - 2019年10月6日[1])は、愛知県稲沢市生まれ、名古屋市北区出身のプロ野球選手投手)・監督解説者評論家実業家タレント
概要

国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)と読売ジャイアンツで活躍し、日本プロ野球史上唯一の通算「400勝投手」である。

同時に通算敗戦(298)、通算奪三振(4490)、通算完投(365)、通算イニング(5526回2/3)、通算対戦打者(22078)、通算与四球(1808)、連続シーズン20勝以上(14)、連続イニング無失点(64回1/3)、開幕投手回数(14)、連続シーズン100奪三振以上(16)はいずれもNPB記録。NPB史上最年少で200勝達成と共に最年少ノーヒットノーランを達成している。NPB最多記録となる最多奪三振を10回獲得。また、史上2人目の沢村栄治賞3回受賞者であり、史上初の3年連続受賞(1956年 - 1958年)も達成している。

引退後はロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)監督や日本プロ野球名球会初代会長を務めた。
概説

愛称は「カネやん」、「金ダー」[2]。少年時代のあだ名は「電柱」「割り箸」など。プロ入り後は「巨人キラー」と言われた[3]

現役時代は国鉄スワローズ読売ジャイアンツでプレーし、日本球界不滅の400勝を記録。引退後はロッテオリオンズ監督(1973年 - 1978年, 1990年 - 1991年)を務め、1974年には前期リーグ優勝、日本一を達成している。千葉ロッテマリーンズ取締役のほか、2009年12月3日まで日本プロ野球名球会会長(代表幹事、同社代表取締役社長)を務めた。2009年11月までは、経営する自身の個人事務所「カネダ企画」内に名球会事務局が置かれていた。

実弟は元プロ野球選手の金田高義金田星雄金田留広で、1軍経験があるのは留広のみ。息子は俳優金田賢一。甥に元プロ野球選手の金石昭人がいる。

留広は1969年東映フライヤーズへ入団。この年のオールスターゲームにおいて、正一がセントラル・リーグ、留広がパシフィック・リーグの監督推薦選手となり、7月19日東京スタジアムで開かれた第1戦では、「投手・留広対打者・正一」という対戦が実現している(結果は正一が二塁へのフライで凡退)。なお、正一はこの1969年をもって引退した為、これがプロ野球における生涯唯一の対戦となった。
経歴
プロ入り前

1933年愛知県稲沢市在日韓国人2世として[4][5][6][7]生まれる[8]名古屋市立大曽根中学校在学中に野球を始め、愛知県名古屋市名古屋電気高校(現・愛工大名電高校)を経て、同市の享栄商業高校(現・享栄高校)へ編入[9]。この時点では14歳で、本来は高校に入学できないはずの年齢である[10]。但し、ロッテ監督時代の1990年に金田の担当記者であったスポーツニッポンの大西純一曰く、本人から「終戦の頃に日本国籍を取得した際、書類に実年齢より2歳若い数字を書いて提出した所、そのまま受理された」として「2歳サバを読んでいた」と話されたことがあると言い、仮にこの話が正しければ金田は1931年生まれで享栄高校編入時には就学年齢に達していたことになる[11]。ちなみに、名古屋電気高校の在学中までは電気技師を志していたという。

享栄商では野球部長兼監督の芝茂夫と出会い、金田は芝によって徹底して走り込みを教えられ投手としてのスタミナと体づくりを学んだ。後年、金田は「私の走る野球の原点はここにある」と記し、今でも「野球選手として育ててくれ、足を向けて寝られない」存在として芝を尊敬している[12]。同年の夏の甲子園に補欠で出場したが、登板機会はなかった。

2年次の1949年には、エースとして夏の甲子園県予選準決勝に進むが、瑞陵高校徳永喜久夫に抑えられ完封負け。しかしコントロールに難はあるものの、伸びのある快速球と鋭い縦のカーブは評判となる。

1950年3月、3年生になる直前の時点で、設立されたばかりの国鉄スワローズ西垣徳雄監督にスカウトされた。同年夏も県予選準決勝に進むが一宮高校に1-2で惜敗。この時のチームメートには一塁手高木公男、後にプロで同僚となる二塁手鵜飼勝助がいた。予選敗退後すぐに高校を中退し、シーズン途中に国鉄へ入団。
現役時代
国鉄時代(柿沼 1958)長嶋茂雄デビュー戦を4打席4三振に封じ込めたと報じる新聞記事

プロ初登板は1950年8月23日の広島戦(松山)で3番手で登板、好投したものの9回に捕まり、阪田清春にサヨナラ打を浴び初黒星を喫した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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