金田 喜稔
名前
愛称キンタ、キンさん
カタカナカネダ ノブトシ
ラテン文字KANEDA Nobutoshi
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1958-02-16) 1958年2月16日(64歳)
出身地広島県安芸郡府中町
身長168cm
体重62kg
選手情報
ポジションMF
ユース
1973-1975 広島県立広島工業高等学校
1976-1979 中央大学
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1980-1991 日産自動車 157 (21)
代表歴
1976-1977[1] 日本 ユース9[1] (1[1])
1977-1984[2] 日本58 (6)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
金田 喜稔(かねだ のぶとし、1958年2月16日 - )は、日本の元サッカー選手。元サッカー日本代表で、「19歳119日」という日本代表最年少得点記録を保持している(2017年時点)[3]。広島県安芸郡府中町出身。現在はTBSなどでサッカー解説者として活躍している。尊敬するサッカー選手はジョージ・ベスト。フチューマ
所属。日本サッカー名蹴会会長。いわきFC シニアアドバイザー。一般財団法人日本スポーツ振興会 理事。目次サッカーを始めたのは中学に入ってから[4]。小学生のときはソフトボールを主にやっていた[4]。坊主頭になるのが嫌で野球を諦め、中学からサッカー部に入った[4]。週1回の『三菱ダイヤモンド・サッカー』を観て、世界のトップ選手たちのプレイに憧れビデオの無い時代、テレビ放送に目を凝らし、翌朝近くのグラウンドで想像してボールを蹴った[4]。育った府中町は東洋工業(マツダ)の本社があり、中学の校庭にナイター施設があったため、船本幸路や大野毅らがよく来てサッカーを教えてくれた[4]。大野が日本代表と知らず「俺のドリブル、あんたには止められんぜ」と実際に抜いていた。これについて金田は、「まともにタックルを受けたら骨が折れてたろうが」と話している[5][6]。 当時、広島で1番強かった県立広島工業(通称・県工)に進学。同校監督は第1回FIFAコーチングスクール(1969年)で実技でトップになり後にJFAの専任コーチも務めた松田輝幸で、さすがに松田からはボールは取れず、徹底した指導を受けドリブルに磨きをかけた[7]。
選手時代