金田一京助
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金田一 京助
人物情報
生誕 (1882-05-05) 1882年5月5日
日本岩手県南岩手郡盛岡
死没 (1971-11-14) 1971年11月14日(89歳没)
日本東京都文京区本郷
動脈硬化症気管支肺炎
国籍 日本
出身校東京帝国大学文科大学
配偶者金田一静子
両親

久米之助

ヤス
子供
長男
春彦

真澄秀穂美奈子
学問
研究分野言語学
国語学
研究機関國學院大學
東京大学
指導教員上田萬年
主な指導学生有坂秀世
久保寺逸彦
見坊豪紀
服部四郎など
学位文学博士
主な業績アイヌ語研究
主要な作品『ユーカラの研究』
『アイヌ文学』
『ユーカラ概説』
『心の小径』など
影響を受けた人物島崎藤村
新村出
金沢庄三郎
影響を与えた人物知里幸恵
知里真志保
学会日本言語学会
主な受賞歴従三位
勲一等
瑞宝章
文化勲章
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金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年明治15年〉5月5日 - 1971年昭和46年〉11月14日)は、日本言語学者民族学者。日本のアイヌ語研究の本格的創始者として知られる。國學院大學教授を経て東京帝国大学教授、國學院大學名誉教授日本学士院会員。日本言語学会会長(2代目)。文学博士(東京帝国大学より取得)。栄典従三位勲一等瑞宝章文化勲章。盛岡市名誉市民[1]歌人石川啄木の親友であったことでも有名。

長男の春彦、孫の真澄秀穂も言語学者。
生涯
生い立ち

1882年(明治15年)5月5日、盛岡の四ツ家町に金田一久米之助・ヤス夫妻の長男として誕生。姉1人、弟6人、妹3人の11人兄弟だった。父が商用で京都に上京中に生まれたので、京助と名付けられた。金田一家は、京助の曽祖父伊兵衛勝澄が米穀商として一代で財を成し、大飢饉の際、蔵を開いて町の人を飢えから救い、南部藩の士分に取り立てられた名家であった。父の久米之助(旧姓・梅里)は農家の出身だったが、読み書きそろばんのほか絵もうまく、才気煥発であったところを買われてヤスの婿養子になったが、商売下手で任された事業にことごとく失敗していた。しかし金田一家の当主で伯父の金田一勝定(ヤスの長兄)の援助により、京助は生活苦を知らず育った[2]。弟6人は全員東京帝国大学に進学している[3]

久米之助は子供たちに寝かしつける時、『源平盛衰記』『平家物語』を語って聞かせた[4]。やがて京助は金田一本家の文庫蔵に通い、『三国志』『史記評林』『項羽本紀』などを読みふけるようになる[5]

岩手県立盛岡尋常中学校(在学中に岩手県立盛岡中学校となる。現・岩手県立盛岡第一高等学校)に進学する。同窓生に及川古志郎野村胡堂がいる。盛岡中学時代は、自宅のランプから引火した小火を消そうとして手を怪我したのが原因で中指薬指が曲がらなくなり、得意だった絵はあきらめ、ますます文学に熱中する。影響を受けたのは島崎藤村の『若菜集』。「梅里花明」の筆名で文芸雑誌に歌を投稿し、校内からは「金田一花明」と呼ばれていた[3]。『明星』が1900年4月に創刊された際、他の雑誌に投稿した歌が(その雑誌の選者だった与謝野鉄幹により)転載された[3]。これを機に京助は『明星』の発行元である新詩社の社友になり、その後も『明星』に短歌を発表した[3]。1901年1月頃に、及川古志郎から「短歌を志す後輩」として石川啄木を紹介され、京助は手元の『明星』全号を啄木に貸し与えている[3]。やがて、啄木とは短歌の回覧誌『白羊』を出した[6]。1898年度(3年生)当時は全校で17人の特待生の一人で、同年度の学業成績平均点は86点だった[7]

当時は小柄で、柔道の練習でも昼間の乱取りを避けてもっぱら朝稽古に姿を出すようにしていた。同じように朝稽古に来ていたのが2年上級の米内光政で、2人で柔道の稽古をするようになった。大柄な米内が小柄な京助のかけた技に大きな音を立てて倒れて稽古を繰り返した[8]ことから、実力差がわかっていた京助は恐縮してばつの悪い思いをしたという。
アイヌ語研究へ東京帝国大学言語学科(1905年)。
前列右から小倉進平伊波普猷、神田城太郎。中列右から保科孝一八杉貞利上田万年藤岡勝二新村出。後列右から橋本進吉、徳沢(徳沢健三?)、後藤朝太郎、金田一京助。
伊波普猷生誕百年記念会編『伊波普猷 : 1876-1947 生誕百年記念アルバム』1976年、19頁。

第二高等学校を経て1904年(明治37年)9月、東京帝国大学文科大学に入学、上京。新村出上田万年の講義に魅かれ、言語学科に進学。1年先輩に橋本進吉小倉進平伊波普猷がいた。小倉は朝鮮語、伊波は琉球語を研究していたが、アイヌ語は日本人研究者がおらず、イギリス人宣教師のジョン・バチェラーによってアイヌ語辞典が出版されていた。上田から「アイヌ語研究は日本の学者の使命だ」と言われ、東北出身の京助はアイヌ語を研究テーマに選ぶ[9]。1906年(明治39年)初めて北海道に渡り、アイヌ語の採集を行う。旅費70円を出したのは伯父の勝定だった。この調査で京助は研究に自信をつける[10]。1907年(明治40年)サハリンのオチョポッカで樺太アイヌ語の調査をする。アイヌの子供たちを通じて樺太アイヌ語を教わったエピソードはこのときのことであり、のちに随筆『心の小径』で有名になった。旅費は、勝定から100円、上田から100円の計200円もの大金を使ったが、40日の滞在で文法や4000の語彙の採集に成功、その帰り、京助は生活の心配という迷いを断ち切り、アイヌ語の道を進むことを決意する。


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