金澤 翔子(かなざわ しょうこ、1985年6月12日 - )は、東京都目黒区出身の書家。 母も同じく書家の金澤泰子 母・泰子が高齢出産にあたる42歳で翔子を出産。新生児期に敗血症にかかり、後にダウン症と診断される。当初はその事実を知った泰子は我が子と共に死のうとも考えたが、夫の熱心な想いと遅咲きながらも少しずつ育っていく子の姿を見て思いとどまったという[1]。 1990年、母に師事し5歳で書道を始める。当初は小学校の普通学級に通っていたが、小学4年の時に別の学校の特別支援学級に移ってほしいと言われ転校。突然転校になったことにショックを受け一時学校に行かなくなったが、母が般若心経を大きな紙に書かせることを思い立ち、翔子は厳しい指導に涙を流しながらも書き続け276文字の般若心経を完成させた(この作品は「涙の般若心経」と呼ばれ、のちに個展で展示されている)。母は「普通学級に通い続けていたら、翔子は書家になっていなかった。苦しい中、般若心経を書いていなかったら、今の翔子はないと思います」と語っている[2]。 1995年、全日本学生書道連盟展に「花」を初出品する。1999年、日本学生書道文化連盟展に「龍」を出品し銀賞を受賞。2000年にも同じく日本学生書道文化連盟展に「延命十句観音経」を出品して銀賞を受賞。2001年、日本学生書道文化連盟展に「舎利札」を出品し、学生書道としては最高位である金賞を受賞。その後、矢口養護学校に進学する。 2002年、日本学生書道文化連盟展に「觀」を出品し金賞を受賞。翌年の高校2年生修了と同時に学校を中退し、荒井裕司が理事を務めるステップアップアカデミー(現・翔和学園)に入学する(中退)。 2004年、書家としての号「小蘭」を取得。貿易会社を経営していた父は翔子が14歳の時に心臓発作で52歳で急逝しており、生前「翔子が20歳になったら個展を開こう」と語っていたことから、遺志を継ぎ翔子が20歳になった2005年に初の個展「翔子 書の世界」を銀座書廊で開催[3]。豪華な図録を作り、帝国ホテルで記念レセプションも開催した。母は「生涯に一度だけ、翔子の個展を盛大に開いてあげよう。結婚はできないかもしれないから、結婚式と披露宴のつもりで、思い切って夫が残したお金を使って最高の展覧会とパーティーをやろうと決意したんです。ここまでやれば、私が倒れ、翔子が施設に入ることになっても認めてもらえるのではないか。そんな考えもありました」と語っている[4]。この個展がメディアで取り上げられ、書家として注目を浴びることとなった。 2009年11月、建仁寺に「風神雷神」を奉納。この作品は同寺蔵の国宝「風神雷神図」の隣に展示され大きな反響を呼んだ[5][6]。 2011年、ゆずのシングル『翔』のジャケットの「翔」の字を書く[7]。 2012年1月、福島県いわき市に自身初の常設館である「金澤翔子美術館」を開設[8]。館長となる。 2013年、東京・味の素スタジアムで開催された第68回国民体育大会の開会式で、5m四方の紙に「夢」を揮毫。 2015年3月、ニューヨークの国連本部で開催された「世界ダウン症の日」記念会議に日本代表として出席しスピーチを行った(国連スピーチ フルバージョン
概要
経歴
2015年、30歳を迎えた節目に縦4m×横16mの「世界一大きい般若心経」を書く。静岡県浜松市の龍雲寺で常設展示されている[10]。同年、実家の近所にワンルームマンションを借り一人暮らしを始めた[11]。
2015年、愛媛県と福岡県で書家としては異例の県立美術館での個展が開催され話題となる。
2016年、文部科学省「障害者・生涯学習」スペシャルサポート大使に就任。
2017年、東京上野の森美術館にて自身最大級の個展を開催。高円宮妃をはじめ、文部科学大臣(当時)の林芳正や日本美術界はもとより各界の著名人が多数来場した。会期中8日間で延べ4万人の来場を記録し大きな話題となる。
2019年5月、ドキュメンタリー番組「情熱大陸」に出演し大きな反響を呼ぶ。又、同作品はニューヨークフェスティバルに出品されテレビドキュメンタリー部門の銅賞を受賞している。
2019年7月、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の公式アートポスター制作アーティスト就任(オリンピック部門担当)が大会組織委員会より発表される。
2019年、8月 読売ジャイアンツ公式戦で始球式を務める。