金沢電気軌道
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金沢電気軌道株式会社
本社車庫(1919年撮影)
種類株式会社
略称街鉄
本社所在地 日本
石川県金沢市上胡桃町52番地
設立1916年(大正5年)10月29日[1]
解散1941年(昭和16年)8月1日
北陸合同電気へ統合)
業種陸運業
事業内容鉄道・軌道事業旅客自動車運輸事業電気供給事業
歴代社長本多政以(1916 - 1919年)
小塚貞義(1919 - 1924年)
横山一平(1924 - 1925年)
横山隆俊(1925 - 1930年)
横山一平(1931 - 1932年)
菅野伝右衛門(1932 - 1941年)
公称資本金600万円
払込資本金525万円
株式数普通株:6万3000株(額面50円払込済)
第1優先株:3万7000株(同上)
第2優先株:2万株(12円50銭払込)
総資産1045万425円(未払込資本金除く)
収入159万2034円
支出128万7300円(償却費を含む)
純利益30万4733円
配当率年率6.5%(優先株10.0%)
株主数2369人
主要株主高岡電灯 (26.6%)、太平生命保険 (1.2%)
決算期5月末・11月末(年2回)
特記事項:資本金以下は1940年11月期決算時点[2][3]
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金沢電気軌道株式会社(金澤電氣軌道株式會社、かなざわでんききどう かぶしきがいしゃ)は、大正から昭和戦前期にかけて石川県加賀地方に路線を有した鉄道事業者である。北陸鉄道(北鉄)の前身の一つ。

金沢市内における路面電車敷設を目的として1916年(大正5年)設立。1919年(大正8年)の市内線(後の北陸鉄道金沢市内線)開業を皮切りに、周辺事業者を合併して路線網を拡大した。1921年(大正10年)からは電気供給事業1931年(昭和6年)からは路線バス事業も手掛けた。

電気事業の存在ゆえ戦時下の電気事業統合に加わり、1941年(昭和16年)に北陸合同電気となった。翌年この北陸合同電気から交通事業が独立、新会社がさらに1943年(昭和18年)の交通事業統合に参加して北陸鉄道が発足している。
概要本社・車庫前を走る市内線電車(1919年撮影)

金沢電気軌道株式会社は、石川県を中心に鉄道事業・バス事業を展開する北陸鉄道株式会社の前身企業の一つである。金沢市を中心とした地域において地方鉄道軌道事業と旅客自動車運輸事業(路線バス事業)の3つからなる交通事業、および電気供給事業を経営していた。略称は「街鉄」(がいてつ)。

鉄道事業者としては北陸鉄道の鉄軌道路線のうち石川線とすでに廃線となった金沢市内線松金線能美線を経営していた。元来はこのうち金沢市内線すなわち金沢市内の路面電車を建設すべく起業された会社であり、1916年(大正5年)10月に設立。1919年(大正8年)2月に最初の路線を開業させ、以後市内線の拡張しつつ企業合併・買収を繰り返して石川線をはじめとする市外線を取得、路線網を拡大した。路線バス事業は1931年(昭和6年)に進出。こちらも金沢市内外に路線を広げている。

電気供給事業の兼営は1921年(大正10年)に開始された。金沢電気瓦斯という電気・ガス会社が事業を金沢市に買収されるにあたり、買収対象から外れた市外地域の電気供給事業を金沢電気軌道が買収し成立したものである。後から加わった事業ではあるが、1938年下期時点では電気供給事業収入は122万円余りの総収入のうち5割に迫る約61万円に達しており、鉄軌道事業収入約54万円よりも大きいものであった[4]

資本的には旧加賀藩藩主前田家をはじめ旧藩関係者の出資で設立された会社であった。ところが1920年代前半に経営方針をめぐる社内の混乱があり、前田家などが株式を放出。これを富山県の電力会社高岡電灯が買い集めたことから1930年代初頭には同社の傘下に入った。1941年(昭和16年)8月、北陸3県の電気事業統合に高岡電灯などとともに金沢電気軌道も参加して解散北陸合同電気となった。翌1942年(昭和17年)4月に北陸合同電気が配電統制令に基づき国策配電会社北陸配電に統合されるにあたり、旧金沢電気軌道が持ち込んだ交通事業は分離され、(旧)北陸鉄道が発足する。さらに1943年(昭和18年)10月に今度は石川県の交通事業統合が実施され、(旧)北陸鉄道ほか6社の合併で現在の北陸鉄道が新設された。

太平洋戦争後の電気事業再編成により北陸配電の事業を引き継ぎ北陸電力が設立された。従って金沢電気軌道は北陸鉄道の前身企業であるとともに、電気事業者としては北陸電力の前身の一つともいえる。
沿革
会社設立

明治時代金沢市における公共交通の主力は人力車であった[5]北陸本線金沢駅が開業した1898年(明治31年)、その数は1300台に達していたという[5]。次いで乗合馬車が出現し、1904年(明治37年)の段階で犀川大橋と金沢駅・浅野川大橋野村兵営の3地点をそれぞれ結ぶ路線が運行されていた[6]。また金沢近郊では、1898年に金沢と外港のある上金石町を結ぶ馬車鉄道が開業し(後の北陸鉄道金石線)、1904年には金沢市と松任町(現・白山市)を結ぶ馬車鉄道も開業した(後の北陸鉄道松金線[7]

1895年(明治28年)の京都電気鉄道開業を契機に全国的に普及が進んだ市街電車を建設し、都市交通を近代化しようとする動きは、金沢市では1905年(明治38年)に現れた[6]。その最初のものは、各地で鉄道事業に関与していた雨宮敬次郎の構想であった[7]。次いで京都電気鉄道に関係していた高木文平らが宮野直道・山森隆など金沢の政財界人を発起人に加え1906年(明治39年)に事業を出願した[7]。こうした動きに刺激され金沢市でも市営電車について調査するが、資金面から断念された[7]

1911年(明治44年)になると、東京の有志と関西の有志による別個の市街電車敷設計画が浮上する[7]。そこで東京の「加越能郷友会」の中心人物早川千吉郎が両陣営を仲介し計画を合同[7]。東京から旧加賀藩士族横山一平、関西から神戸の肥料商曽根忠兵衛が総代として立てられ、総勢59人の発起人により「北陸電気軌道株式会社」の名義で軌道敷設の出願がなされた[7]。1911年3月16日のことである[8]。軌道敷設に並行して幹線道路の拡張・近代化を図る意向があった金沢市の協力も取り付け、1912年(明治45年)6月28日、軌道敷設特許を取得に至った[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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