金沢文庫
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この項目では、文庫としての金沢文庫(かねさわぶんこ)および博物館としての神奈川県立金沢文庫(かなざわぶんこ)について説明しています。京急本線の金沢文庫駅(かなざわぶんこえき)については「金沢文庫駅」をご覧ください。

金沢文子」とは異なります。

神奈川県立金沢文庫
神奈川県立金沢文庫新館
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施設情報
正式名称神奈川県立金沢文庫
前身金沢文庫
専門分野神奈川県(中世)の歴史
事業主体神奈川県
所在地236-0015
神奈川県横浜市金沢区金沢町142番地
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度20分38.2秒 東経139度37分43.3秒 / 北緯35.343944度 東経139.628694度 / 35.343944; 139.628694座標: 北緯35度20分38.2秒 東経139度37分43.3秒 / 北緯35.343944度 東経139.628694度 / 35.343944; 139.628694
外部リンク公式ウェブサイト
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金沢文庫(かねさわぶんこ)は、鎌倉時代中期(13世紀後半)において、金沢流北条氏北条実時が金沢郷(現在の横浜市金沢区)に設けた文庫である。武家の文庫としては日本最古と紹介されることもある[1][2]

近代になって復興され、現在は「神奈川県立金沢文庫」(かなざわぶんこ)の名称で県立歴史博物館となっており、様々な所蔵品を保管・展示している。所在地は神奈川県横浜市金沢区金沢町142番地。
概要金澤文庫蔵書印

金沢(武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷)は金沢流北条氏が領し、のちに館や菩提寺である称名寺を建立して本拠地として開発し、家名の由来となった地である。

鎌倉時代中期に幕府の要職を務めた北条実時は、鎌倉に下った明経道清原教隆に漢籍訓読を学ぶ一方、嫡系の北条政村の影響で王朝文化にも親しむ文化人であった。実時は金沢家に必要な典籍や記録文書を集め、和漢の書を収集した。実時は晩年を金沢館で過ごしており、蔵書も金沢に移されたと考えられている。

文庫は実時の蔵書を母体に、顕時、貞顕、貞将の代に拡充された。特に実時の孫にあたる金沢貞顕六波羅探題に任じられ京都へ赴任すると、公家社会と接する必要もあり収集する文献の分野も広がり、貞顕は自らも写本を作成し「善本」の収集に努めた。また、貞顕は菩提寺の称名寺を修造している。

鎌倉幕府の滅亡に際して貞顕は自刃、貞将も戦死し、金沢氏は滅亡する。以後は称名寺が典籍類の管理を引き継いだ[3]が、次第に衰退していった。室町時代関東管領上杉憲実が再興したとも言われるが定かではない[4]後北条氏徳川家康前田綱紀らによっても多くの蔵書が持ち出され、「金沢文庫本」と呼ばれる典籍の多くは散逸した。
創建に関する説

文庫の創建に関する一次史料は残されていない。金沢貞顕書状(1304年か)に「文庫書籍、此人(欠字)貸し候事、有るまじく候」[5]とあり、文庫の管理を気にかけていたことが窺える。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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