金沢地先埋立事業
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南側から見た埋立地の全景(1985年)2007年の航空写真。中央付近が金沢地先の埋立地

金沢地先埋立事業(かなざわちさきうめたてじぎょう)は、神奈川県横浜市金沢区の沖合を約660万m2にわたり埋め立て、都心部より工場を移転させ都市機能を再整備するとともに、住宅や海浜公園を造成する都市計画事業。横浜市六大事業の一つとして1971年昭和46年)に着工し[1]1988年に完成した[2]
目的

第二次世界大戦後の高度経済成長期において、横浜の都心部において住宅・商店・工場が無秩序に混在するスプロール現象が進みつつあった。また、工場立地法の改正により住工混在地区の中小の工場では今後操業の継続が困難になる懸念も生じた[3]。本事業は、都心部からの工場の移転用地を整備し、工場従業員や都市基盤再構築による移転の受け皿、さらに住宅難に応える住宅地を用意するものである。横浜市に残る最後の自然海岸を埋め立てることから、その代替となる海浜公園も建設する。横浜駅と桜木町の間の海側に広がる三菱重工業横浜造船所を当地および本牧へ移転させ、跡地を都心部強化(横浜みなとみらい21)に充当するが、一時的な財政収入を目的とした、大企業の新規誘致はしないこととした[4][5]。本計画が持ち上がった前後に、東京湾の千葉県側には製鉄所や石油化学コンビナート、横須賀市では造船所や自動車工場が誘致されたのとは対照的である[6]
歴史

第二次世界大戦以前の金沢は、金沢八景に代表されるように景勝地であり、富岡から柴にかけての海岸では海苔ワカメの養殖や漁業が行われていたが[7]戦時中に日平産業や文寿堂富岡工場(海軍関係の印刷物を扱った印刷会社。1950年倒産[8])など軍需産業が進出。軍の指令による埋立も行われた。戦災では大きな被害を免れたため、京浜地区より移り住む者が急増した[9]。昭和30年代には、京急興業による富岡、西武系国土計画興業による西柴をはじめ種々の業者による宅地開発が急増した。その多くが丘陵の傾斜地を階段状に造成するもので、下水道や道路など公共施設の整備が追い付かずにいた。1963年ごろには大手業者から地元漁協に対し海面埋め立ての打診があったとの情報が市にもたらされ、独自の埋立構想を持っていた市は対応に迫られた[10]。横浜市による記録に残る埋立構想は、1963年3月に横浜国際港都建設審議会に諮問された「横浜国際港都総合基幹計画改定案」が初めてで、金沢地先330haに工場移転用地と、埋立地の一部および富岡・釜利谷の土砂採取地に住宅地を造成するもので、工場用地が主体であった。1965年10月に発行された小冊子「横浜のまちづくり」では六大事業の他のプランと共に埋立案が初めて市民に示された。この案では埋立面積を増加するとともに用途を工場・住宅で半々にした。同年4月の「横浜国際港都建設福祉計画案」では、市民の健康的文化的生活を営む上に必要な一大臨海公園が計画に盛り込まれた。1968年7月には、横浜市六大事業の一環として正式に決定された[11]。当初は1968年度から1972年度にかけての5ヶ年の事業として計画され、根岸湾ハ地区(鳥浜町)から富岡川にかけての200万m2を1号地として金沢木材埠頭三菱重工業横浜製作所下水処理場などに充てられ、富岡川から長浜水路にかけての2号地は清掃工場や流通関連用地、貨物ヤード、以南の3号地は主として中小企業用地とされる計画であった。工区の分割には、防災上の利点のほか、在日米軍小柴貯油施設および横浜検疫所長浜措置場の調整に期間を要することが予想され、当該区域以外を先行して着工する狙いがあった[6]。その後、漁業権交渉や反対運動、土砂の入手先変更により1971年と1974年に2度計画変更される。

計画地内には金沢漁業協同組合(1970年6月1日現在の組合員数196人)、柴漁業協同組合(同167人)、富岡漁業協同組合(同95人)の3つの漁業協同組合が漁業権を有し、海苔わかめの養殖や底引き網などを行っていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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