金正男
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この項目では、北朝鮮の人物について説明しています。韓国のサッカー選手については「金正男 (サッカー選手)」をご覧ください。

 朝鮮民主主義人民共和国政治家金正男???

生年月日 (1971-05-10) 1971年5月10日
出生地 朝鮮民主主義人民共和国平壌直轄市
没年月日 (2017-02-13) 2017年2月13日(45歳没)
死没地 マレーシア セランゴール州セパン クアラルンプール国際空港
出身校金日成総合大学
所属政党 朝鮮労働党
配偶者シン・ジョンヒ/ミョンヒ (本妻)[1][2]
李恵慶〈リ・ヘギョン〉(第2夫人)[2][3]
子女金クムソル (長男)(母ジョンヒ)[1]
金漢率 (次男) (1995年誕生、母恵慶)
金ジミー (三男) (1997年誕生)
金率熙〈ソリ/ソルヒ〉(娘)[4] (1998年誕生、母恵慶)
親族金正日 (父親)
成恵琳 (母親)
金日成 (祖父)
金雪松 (妹)
金正哲 (弟)
金正恩 (弟)
朝鮮民主主義人民共和国
コンピュータ委員会委員長
在任期間1988年 - ?
国家主席金日成
朝鮮労働党組織指導部
在任期間2007年6月 - ?
党総書記金正日
朝鮮人民軍大将
在任期間1995年 - 2001年
最高司令官金正日
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金正男
???
渾名胖熊[5]
生誕 (1971-05-10) 1971年5月10日
 朝鮮民主主義人民共和国平壌直轄市
死没 (2017-02-13) 2017年2月13日(45歳没)
マレーシアセランゴール州セパン
所属組織 朝鮮人民軍
軍歴- 2001年
最終階級陸軍大将
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金正男
各種表記
チョソングル:???
漢字:金正男
発音:キム・ジョンナム
日本語読み:きん せいだん
ローマ字:Kim Ch?ng-nam
英語表記:Kim Jong-nam
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金 正男(キム・ジョンナム、: ???、1971年5月10日 - 2017年2月13日[6][7])は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の元政治家。北朝鮮第2代最高指導者・金正日労働党総書記長男かつ第3代最高指導者・金正恩労働党総書記の異母兄。
経歴
出生

1971年5月10日、北朝鮮の初代最高指導者・金日成の息子である金正日を父、映画女優の成尢ヤを母に平壌で生まれる[8]。しかし両者が付き合い始めた時、成尢ヤは既に結婚しており子供もいたため長年にわたり内縁関係にあったとされ、正日は父の日成に成尢ヤとその子のことが漏れないように努めていた[8]。当時、正日は継母の金聖愛と対立しており、この時に詳細が明るみに出ていれば正日は金日成の後継者としての地位を失っていたかもしれないといわれている[8]。そのため正男は平壌中心部の大邸宅に隔離されて育ち、母方の祖母と母方のおば(成恵琅)と共に暮らした[8]

一方、正日の妹の金敬姫は常に正男の味方であり続け、正男を自らの息子として育てようと試みたこともあった[8]。後に日成も娘の金敬姫・張成沢夫妻のとりなしを受けて初孫である正男の存在を認め、活動に専念する正日に代わって可愛がるようになったとされ[9]1994年に訪朝したジミー・カーターアメリカ合衆国大統領にも「自分が一番愛する孫」と紹介していた[9][10]。対照的に父・正日と後妻の高英姫の間に新たに生まれた孫の金正恩金正哲を祖父・日成は孫として認めなかったとされ[10][11][12]、金敬姫・張成沢夫妻によって面会もできなかったとされる[13]。異母兄弟の金正恩らは平壌から離れた元山市で生活しており、誕生日を祖父・日成から直接祝福された金正男は謂わば「皇太子」の地位を確定したと当局からみなされていたとされる[14]。金正男の誕生日は豪勢に祝われ、毎年の誕生日プレゼントに100万米ドル(日本円で1億円相当)が費やされたとされる[15]
留学

正男は1979年からの10年間、北朝鮮の外で生活していた[8]。12歳から14歳まではソビエト連邦の首都モスクワで生活していたという[16]1981年からスイスベルンにあるインターナショナルスクールに留学した後、1980年代後半にジュネーブ大学に入学したという[17]。この際にコンピュータに触れて関心を持ったとされる[18]1995年からは中国の首都北京でも暮らし始め、上海の経済発展ぶりを見て北朝鮮の改革開放を志すようになる[19]

1980年代後半に帰国した頃にはフランス語英語を流暢に操るようになっていた[8]。またロシア語中国語広東語)もある程度話せたようである。日本語については、日本人記者の「日本語は分かりますか?」という朝鮮語の質問に、日本語で「日本語ワカリマセン」と答えている[20]

1980年代後半に正男は帰国したが、1970年代後半から父の正日は高英姫と交際を始めており、高英姫は自らの子供たちを後継者にしようと画策していると使用人の間で噂されていたという[8]
職務と生活

1988年に17歳[21]でコンピュータ委員会委員長に就任して北朝鮮のIT政策の最高責任者となり[18]朝鮮コンピューターセンター(KCC)を設立させ[17][22][23][24]北朝鮮サイバー軍を育成する金策工業総合大学や金日成総合大学などでプログラミングを直接監督して[23]、軍の地下光ファイバーケーブルなど北朝鮮のITインフラの整備に関わったとされる[25]

しかし、帰国後の正男は世間から隔絶された平壌や元山での暮らしに不満を覚え、政治経済体制にも疑問を抱いていたとされ、父の正日から政治犯として炭鉱で働かせると警告を受けたといわれている[8]。また1990年代前半には国営工場の工場監査に参加したが、罪をかけられた工場経営者たちが処刑される姿を見て国の政治体制に幻滅するようになったといわれている[8]

1995年には朝鮮人民軍の大将となり[26]1996年に新設された秘密警察朝鮮人民軍保衛司令部の責任者になったとされる[27]

この頃の正男の役割は数十億ドル相当ともいわれる金一族の秘密口座の管理だったといわれている[8][28]投資家死の商人という実業家の一面も持ち、スカッドSA-16などの武器を輸出して得た元手で株式不動産に投資して、マカオスイス香港・日本・シンガポールイギリスなどの銀行にある保衛司令部の資金を管理し[25][26][29]朝鮮労働党39号室の責任者でもあったという[24][30]1990年代から毎晩平壌高麗ホテルメルセデス・ベンツで乗り付けて豪遊していたとされ、一晩で10万米ドルを浪費することもあったという証言もある[14]

2000年6月の父・正日と金大中大統領南北首脳会談の前に現代グループが行ったとされる5億ドルや4億ドルとも言われる巨額の対北送金は経由地のマカオで秘密資金を管理していた金正男の手にも渡ったとされる[31][32]

2001年1月に父・正日が訪中した際の上海市のIT技術視察にも同行し[18][33]、父・正日は江沢民中国共産党総書記との会談で摩天楼が並び立つ上海の経済発展を「上海は天地開闢した。改革開放が中華人民共和国の経済発展に重要な役割をしたことが十分に証明された」と絶賛して改革開放に意欲を見せた[34][35][36]。この時、金正男は江沢民の長男である江綿恒と会談して太子党と親交を結んだとされる[37]


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