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出典検索?: "金森頼錦"
凡例金森 頼錦
時代江戸時代中期
生誕正徳3年10月15日(1713年12月2日)
死没宝暦13年6月6日(1763年7月16日)
改名臺頼、臺近、又太郎
戒名覚樹院殿芳山青藍大居士
墓所京都府京都市北区紫野大徳寺町の大徳寺龍源院
官位従五位下、若狭守、兵部少輔
幕府江戸幕府 奥詰、奏者番
藩美濃郡上藩主
氏族金森氏
父母父:金森可寛、母:岩上氏
妻正室:なし、側室のみ
子頼元、井上正辰、娘(井上正相室、金森可英養女)、頼方、可端(金森可郷養子)、娘(酒井忠美室、小出有相養女)、錦豊(円成坊)、頼興、満吉
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金森 頼錦(かなもり よりかね)は、江戸時代の美濃郡上藩の第2代藩主。金森可寛の長男。 父の可寛は初代美濃郡上藩主金森頼?の嫡子であったが、享保13年(1728年)に37歳で死去したため、頼錦は享保14年(1729年)に跡継ぎとなり、将軍徳川吉宗に拝謁、従五位下若狭守に叙任した[1]。享保21年(1736年)の祖父の死去により家督を継ぎ、兵部少輔に改めた。延享4年(1747年)奏者番に任じられ、藩政では目安箱を設置したり、天文学に興味を持ち天守に天文台を建設するなどの施策を行った。金森氏の当主らしく文芸に優れ、また、先人の事跡をまとめた『白雲集』を編纂するなど、文化人としても優れていた。 頼錦の任じられた奏者番は出費の多い職であった、しかし同時に幕閣の出世コースの始まりであり、ここから先の出世を目指すためにはさらに相応の出費が必要であった。藩邸の立て直しにも相応の費用がかかった。 頼錦は藩の収入増加を図るため、宝暦4年(1754年)、年貢の税法を検見法に改めようとした。これに反対する百姓によって一揆(郡上一揆)が勃発した。これに苛烈な処断で対するが、さらに神社の主導権をめぐっての石徹白騒動まで起こって藩内は大混乱となった。 宝暦8年(1758年)12月25日、幕命によって改易処分となり、頼錦は陸奥盛岡藩の南部利雄に預けられた。 宝暦13年(1763年)6月6日死去、享年51。 嫡男出雲守頼元をはじめ男子5人は士籍を剥奪され、頼元、三男伊織頼方は改易、五男熊蔵(錦豊・かねとよ)、六男武九郎(頼興
生涯
子女
頼錦の娘について、長女は間部詮央と婚約するが破談となった。のち旗本の金森左京家の金森可英の養女となり、井上正相の妻となっている。次女は森川俊孝と婚約するがこれも破談となり、小出有相の養女となった(『寛政重修諸家譜』)。
頼錦は没すると配流先の盛岡の法泉寺に葬られたが、頼興による金森家再興の翌寛政元年(1789年)、遺体を引き取り火葬の上、京の大徳寺の金森家歴代の墓所に改葬した。なお、金森可重の五男の重勝を祖とする分家の金森左京家は本家改易後も3,000石の石高を維持し、本家改易後は越前国南条郡白崎に領地を移され、以降も交代寄合の旗本として存続した。
脚注^ 須田茂『徳川大名改易録』(崙書房出版、1998年)64頁
参考文献
寛政重修諸家譜
表
話
編
歴
金森氏郡上藩(八幡藩)2代藩主 (1736年 - 1758年)
遠藤家
遠藤慶隆1600-1632
遠藤慶利1632-1646
遠藤常友1646-1676
遠藤常春1676-1689
遠藤常久1689-1693
無嗣改易、将軍綱吉の側室お伝の方の甥が遠藤家を継承、近江三上藩で家名存続
井上家
井上正任1692-1693
井上正岑1693-1697
丹波亀山藩に転封
金森家
金森頼?1697-1736
金森頼錦1736-1758
藩政の失敗により、改易
青山家
青山幸道1758-1775
青山幸完1775-1808
青山幸孝1808-1815
青山幸寛1815-1832
青山幸礼1832-1838
青山幸哉1838-1863
青山幸宜1863-1871
廃藩置県