金森長近
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 凡例金森 長近
龍源院所蔵
時代戦国時代 - 江戸時代前期
生誕大永4年(1524年
死没慶長13年8月12日1608年9月20日
改名可近、長近、素玄(法号)
別名五郎八
戒名金竜院殿要仲素元
墓所京都府京都市北区紫野大徳寺龍源院
官位正四位下兵部卿飛騨守
幕府江戸幕府
主君織田信秀織田信長豊臣秀吉徳川家康秀忠
飛騨国高山藩藩主、美濃国上有知藩藩主
氏族金森氏
父母父:金森(大畑)定近
兄弟政近、長近、政秀、安楽庵策伝(異説有)、姉(佐藤秀方室)
正室:お福の方
継室:久昌院[注 1]
長則長光伊東治明、娘(肥田忠政室)
養子:可重
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金森長近像(高山市城山公園)

金森 長近(かなもり ながちか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名飛騨国高山藩初代藩主。正四位下兵部卿飛騨守。法印素玄。

落語の祖と呼ばれ『醒睡笑』を編した安楽庵策伝は弟とされる。
家系

金森氏は、美濃源氏土岐氏の支流と称する。応仁の乱にて西軍として活躍した美濃国守護土岐成頼の次男である大桑定頼の次男の大畑定近(金森定近)が一族を連れて美濃を離れ、寺内町として著名な近江国野洲郡金森(現・滋賀県守山市金森町)に居住し、「金森采女」を称したことに始まるとされる。
生涯

大永4年(1524年)、金森定近の次男として、美濃国土岐郡多治見郷大畑村(現在の岐阜県多治見市大畑町)に生まれる。幼名は五郎八[1]。はじめ可近と名乗り、後に織田信長から一字を受け、長近と改めた[1]

父の定近は当時勃発していた土岐氏の後継者争いにおいて、土岐頼武を支持したが、頼武は土岐頼芸に敗れて失脚した。このためか、定近も程なくして美濃を離れ、近江国野洲郡金森へと移住した。長近も天文10年(1541年)まで近江で過ごしたと伝わる。

長近は18歳になると近江を離れ、尾張国織田信秀に仕官し、跡を継いだ信長にもそのまま仕えた。美濃攻略に従って功があり、赤母衣衆として抜擢された。

永禄10年(1567年)8月15日、信長が美濃を平定する。この頃に長近は、関吉田3000石を賜ったようである。後に孫の金森重頼徳川家康よりこの領地を賜った時、「長近旧領也」と書かれていることから、可近が当初知行地として信長より賜ったのがこのエリアであると考えられる(『金森家譜』)。

天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは、家康配下の酒井忠次3000騎と共に織田軍5000騎の分遣隊を率いて、武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦への強襲を敢行し、同砦を陥落させた。

このとき忠次は、長篠城を救出した上に、勝頼の叔父の河窪信実等を討ち取り、さらに有海村の武田支軍をも討つ大功を挙げたとされている。兵数では長近の率いた方が多いにもかかわらず、長近の軍功は後世にあまり評価されていない。これは後の世において、徳川四天王に数えられた酒井と比較した場合、長近は比較的無名のためであると考えられるが、戦後、信長から「長」の字を賜り「長近」と名乗ったことからも、長近の功績は大きかったと考えられる[2]

天正3年(1575年)8月、当時越前一向一揆が起きていた越前国に対し、織田信長は多方面からの軍事力投入によりこれを鎮圧せんとした。その一翼として奥美濃から温見峠越えをして越前大野入りした長近は、同地の本願寺坊官の杉浦玄任の軍を散らし、わずかな期間で同地を平定した。この越前一向一揆鎮圧戦で戦功があったことにより、越前国大野郡の内3分の2(越前大野・大野城石徹白)を与えられた[注 2]。大野郡の統治として長近が整備した街が、御清水に代表されるようにその後の大野市市街の基礎になっている。その後は越前を領し織田家のいわゆる北方方面軍を任されていた柴田勝家の寄騎として、織田家中での北陸方面軍に属したが、天正10年(1582年)の甲州征伐では、飛騨口の大将を務めるなど、信長直参としても高い地位にあった。

この頃、長江氏支流とされる板取田口城主の長屋景重の子で、長近が面倒を見ていた長屋喜三(後の可重)を養子に取り、可重に郡上八幡城主・遠藤慶隆の娘の室町殿を嫁に迎えた[3]

天正10年(1582年)2月、従四位下兵部大輔となり[4]、その後さらに正四位下兵部卿に叙任された。同年、本能寺の変が起こり、信長が明智光秀に討たれた。このとき、嫡男の長則が、織田信忠と共に二条城で討死した[1][注 3]。長近は剃髪して兵部卿法印素玄と号した。さらに、信長と長則を弔うため、臨済宗大徳寺の山内に金龍院という塔頭を建立した。

清洲会議などを経て、勝家と羽柴秀吉が対立した時期、長近は寄騎で同じ越前を領する柴田側に与していた。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて、当初は勝家側として秀吉に対峙していたが、秀吉陣営に転じた前田利家と長近は行動を共にし、戦わずして撤退した。柴田勝家は滅び、長近と利家は秀吉の傘下に入った[注 4]

その後は秀吉の幕下として、小牧・長久手の戦いなどに参加した。

天正13年(1585年)、越中の佐々成政の討伐を決めた秀吉(富山の役)であったが、妨害してくるであろう隣国飛騨の姉小路氏が邪魔であった。秀吉は佐々討伐と同時に飛騨討伐も行うこととし、その命を長近に与えた。長近は羽柴勢の越中討伐軍に従軍し、8月に各所で小戦闘行為[注 5]に参加し、そのまま同月中に越中から飛騨に侵入した。当時の飛騨国は、姉小路氏が信長の死後の混乱に乗じて勢力を拡大し、ほぼ一国を手中に収めていた。この姉小路氏の拡大により領土を奪われた勢力、牛丸氏や広瀬宗直、江馬氏江馬時政が長近の下に逃れて来ていた。


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