かなもり みちとも
金森 通倫
牧師時代の金森通倫
生誕 (1857-10-02) 1857年10月2日
肥後国玉名郡小天村(現・熊本県玉名市)[1]
死没 (1945-03-04) 1945年3月4日(87歳没)
福島県郡山市
職業牧師・伝道者・宗教家
子供太郎(官僚)、次郎(実業家)、五郎
金森 通倫(かなもり みちとも、「つうりん」とも 安政4年8月15日〈1857年10月2日〉 - 昭和20年〈1945年〉3月4日)は、日本の宗教家・牧師。別名はポール・カナモリ。晩年は湘南の嶺山に隠居、原始的な洞窟生活をして「今仙人」といわれた[2]。
政治家の石破茂は曾孫にあたる。
経歴
初期の次男として生まれた。その後、一家は、どういう理由からか分からないが、託麻郡本山村(現・熊本市)に移り住んでいる[2]。
明治4年(1871年)、日新堂に入塾。 明治9年(1876年)1月30日の夜、花岡山山上の鐘かけ松の下に洋学校の生徒35人が集まり、「奉教趣意書」を読み上げ、キリスト教精神を新しい日本に宣布することを誓い合った[2]。これは「熊本バンド」と呼ばれている[2]。これに加盟した人々のなかには、本山村に在住していた金森のほか、下村孝太郎などがいた[2]。同年8月、熊本洋学校卒業。 同年9月、同志社入学、新島襄より受洗。熊本バンドで同志社英学校出身の日本組合基督教会岡山教会牧師金森通倫 明治12年(1879年)6月、同志社神学科卒。 明治13年(1880年)10月、日本組合基督教会岡山教会牧師(-1886年9月)。岡山教会牧師時代に、熊本バンドのメンバー(宮川経輝、海老名弾正、横井時雄、小崎弘道、上原方立、加藤勇次郎)と東京の新栄教会で開催された第三回全国基督教信徒大親睦会に幹部として出席する。明治16年(1883年)6月、同志社普通学校長兼神学校長(-1884年3月)。明治17年(1884年)7月、東京番町教会牧師(-1885年4月)。明治18年(1885年)、自由党入党、『自由新聞』主筆。明治21年(1888年)、同志社長代理として同志社大学設立の募金運動を推進。 明治31年(1898年)、棄教を宣言し、2月には大蔵省嘱託となり貯蓄奨励運動を行う。大正3年(1914年)、妻の死を通して信仰を回復して、キリスト教への再入信を表明、救世軍に入隊する。 昭和2年(1927年)3月、ホーリネス教会入会、中田重治が教会をあげて協力する。東京聖書学院の名誉教授に迎えられる(-1932年3月)。『基督教三鋼領』を改定して出版し、「神・罪・救」の三綱領を説く「金森伝道」を展開。「百万人救霊運動」を提唱し、霊魂狩(たましひがり)とい言葉で会員達を鼓舞した。昭和3年(1928年)、 柏木聖書学院の名誉教授に就任する。 昭和5年(1930年)1月、渡米する。ホーリネス・リバイバルの時には日本にはいなかったが、後に運動の中心的な役割を果たす、地方教会をまわって、信徒を激励した。昭和7年(1932年)3月、娘(浜健夫の妻)が胃癌になり、神癒の祈りに没頭するが、死去する[3]。これがきっかけになりホーリネスを脱会する。 昭和20年(1945年)3月4日、福島県郡山市で死去、墓は東京都府中市の多磨霊園にある。 * 金森一家が養蚕業を始めたことについては、石光真清の「城下の人」に「本山村にも新しい風が吹きはじめた。ついこの間まで本山連といわれて村人から尊敬されていた人々も一人欠け、二人欠け、次々に村を去っていくし、実学派に属する人々のうちでも、竹崎(竹崎順子の家)・古荘(古荘幹郎陸軍大将の家)金森(金森通倫の家)の三家は養蚕業を始めて春になると沢山の村人を雇って桑摘みに蚕飼いに大変な忙しさ‥‥‥」とある[2]。
熊本バンド
同志社時代
牧師時代1883年の第三回全国基督信徒大親睦会の幹部、金森は後ろから2列目の右から4人目
棄教と再入信
ホーリネス時代
晩年
人物像救世軍時代の軍服姿の金森通倫
このほか、金森家の近くにあった三村家も養蚕業を始めている[2]。これは明治になって、士族は生活の手段を失い、窮乏化していたということもあるが、日新堂の竹崎茶堂
「貯金のすすめ」を推進するため全国遊説をした[2]。
板垣退助と政談演説をした[2]。
家族 親族
子
太郎(官僚)
次郎(実業家)
四寿子
五郎
九郎
関連人物
板垣退助
新島襄
上代知新
福西志計子
留岡幸助
系譜
金森家(熊本県玉名市、東京都)
金森通倫関連系図