金?奉
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金?奉
???

1955年の金?奉
北朝鮮
初代 最高人民会議常任委員会委員長
任期1948年9月8日1957年9月20日
首相金日成

出生1889年2月16日
李氏朝鮮
慶尚南道東?郡
死去1958年
北朝鮮
政党朝鮮新民党(1946年)
北朝鮮労働党(1946年-1949年)
朝鮮労働党(1949年-1958年)

金?奉
各種表記
チョソングル:???
漢字:金?奉
発音:キム・ドゥボン
日本語読み:きん・とうぼう
ローマ字:Kim Tubong
英語表記:Kim Tu-bong
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金 ?奉(キム・ドゥボン、1889年2月16日 - 1958年?)は、朝鮮独立運動家政治家ハングル学者。は白淵(ペギョン、??)。

日本統治時代中国朝鮮独立運動に従事し、朝鮮解放後は北朝鮮に渡り、北朝鮮労働党委員長や金日成総合大学初代総長を務めた。1948年9月9日朝鮮民主主義人民共和国が建国されると、初代最高人民会議常任委員会委員長に選出され、同国の国家元首を務めた。その後、同国の最高指導者である金日成と対立し、1958年粛清されたと推定される。
経歴
抗日活動

李氏朝鮮時代に慶尚南道東?郡で生まれる。著名な朝鮮語学者・周時経の下で学び、辞典の編纂にも参加した。

1919年三・一独立運動に金?奉は参加するが、日本によって運動が弾圧されると、金?奉は上海に亡命し、同所において組織された大韓民国臨時政府の委員となり、中国を拠点に朝鮮独立運動を推進していく。また、李東輝などを通して共産党に入党し、社会主義系の独立運動家となった。1920年、朝鮮共産党(上海派)に入党[1]

1935年、義理の甥で義烈団団長として日本に抵抗した経歴がある金元鳳と共に朝鮮民族革命党を結成。1938年、朝鮮義勇隊の結成に参加[1]1942年4月30日、朝鮮義勇隊と共に中国共産党の本拠地延安に到着し、彭徳懐が出迎えた[2]。金?奉は政治活動の経歴が古く、人望があり、民族主義的カラーを持っていたため、中国共産党が取り組んだ国際統一戦線工作の理想的な対象であった[2]。同年7月に朝鮮独立同盟を結成、委員長に就任した。中国共産党からは「朝鮮の革命指導者」「朝鮮革命の大先輩」と称賛されたが、中国共産党には加入しなかった[3]。これは中国共産党にとって、党内に引き入れるよりも党外に留まらせた方がより大きな影響力を行使できる狙いがあったとされる[3]
北朝鮮建国前後の政治活動

1945年8月15日第二次世界大戦日本が敗れて朝鮮が解放されると、12月13日に金?奉は帰国して平壌へ赴いた。1946年2月8日、初の中央行政機関である北朝鮮臨時人民委員会が樹立されると、ソ連から帰国した金日成が委員長に、金?奉が副委員長に就任した[4]。同年2月16日、延安で行動を共にした共産主義運動家とともに朝鮮新民党を結成。同年8月28日朝鮮共産党北部朝鮮分局と朝鮮新民党が合併して北朝鮮労働党が成立すると、金?奉は党中央委員会委員長に選出された。しかし党の実権は、副委員長の金日成(旧朝鮮共産党北部朝鮮分局責任書記)が掌握した。

1948年4月の南北協商会談では金日成とともに北側代表として参加し、南側代表の金九金奎植と会談した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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