金村義明
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金村義明2023年6月3日横浜スタジアムにて
基本情報
国籍 日本
出身地兵庫県宝塚市
生年月日 (1963-08-27) 1963年8月27日(60歳)
身長
体重185 cm
90 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション三塁手一塁手
プロ入り1981年 ドラフト1位
初出場1982年9月14日
最終出場1999年9月30日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


報徳学園高等学校

近鉄バファローズ (1982 - 1994)

中日ドラゴンズ (1995 - 1997)

西武ライオンズ (1997 - 1999)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

金村 義明(かねむら よしあき、1963年8月27日 - )は、兵庫県宝塚市出身の元プロ野球選手内野手)。右投右打。現在は野球解説者野球評論家タレント2017年12月からは兵庫県高砂市観光交流ビューローからの委嘱によって「高砂応援大使」を務めている[1]

旧名は金 義明(キム・ウィミョン、???)。高校時まで朝鮮籍を有しており、韓国籍に切り替えた後に現在は日本国籍を持っていることを公にしている[2]
来歴・人物
プロ入り前

中学・高校時代を通じて、
報徳学園に在学。高校3年生だった1981年には、エースで4番打者として、甲子園の全国大会へ春夏連続出場を果たした。春の選抜大会では、大府高との1回戦で、槙原寛己との投げ合いに敗れた。しかし、夏の選手権大会では、チームを全国制覇に導いている。また、両大会では打者として、通算打率は.577、本塁打3本を記録している。

高校3年夏の全国大会では、「1回戦突破」という目標を盛岡工業高校戦で達成すると、前年優勝の横浜高校と対戦した2回戦で2打席連続本塁打を放った。3回戦で荒木大輔を擁する早稲田実業学校高等部に投げ勝ち、準々決勝で藤本修二のいた今治西高校に勝利すると、名古屋電気高校との準決勝で、工藤公康から二塁打を含む3安打を記録。決勝の京都商業高校(現・京都先端科学大学付属高等学校)戦にも勝利し優勝した。高校時代から饒舌で歯に衣着せぬ発言で知られ、「早実のようなチームは好きでない。」などと発言し話題を呼んだ。[3]さらに、投手として、初戦から決勝戦までの全6試合で完投勝利を収めた[4]。夏の全国大会の優勝投手で、4番打者を務めながら全試合を1人で完投した選手は過去に8名いるが、この大会での金村を最後に現れていない。また、この大会で記録した通算打率.545(22打数12安打2本塁打)は、夏の全国大会優勝投手としては1939年嶋清一(.550)に次ぐ歴代2位(春の全国大会を含めると3位)に当たる(いずれも2021年大会終了時点)[5]。このように投打とも大いに活躍したことから、現役を引退してからも、高校野球関連の番組・企画にたびたび登場している[6]。ただし、完投勝利を収めるたびにマウンド上で飛び上がりながらガッツポーズを披露したため、高野連の関係者から注意を受けたという[7]


1981年のドラフト会議で、近鉄バファローズ阪急ブレーブスから1位で重複指名。抽選の末に、近鉄が交渉権を獲得した。なお、阪急は再指名を経て、山沖之彦を獲得している。

金村自身は、ドラフト会議の時点で阪急への入団を志望していた。阪急電鉄沿線で往年の主力打者・長池徳士1979年限りで現役を引退)の自宅の近くに実家があったことや、「阪急ブレーブスこども会」へ入会していたこと、看板選手の福本豊を少年時代から応援していたことによる[8]。『在日魂』(現役引退後に著した自叙伝)によれば、ドラフト会議の前には、近鉄から挨拶を受けつつ水面下で阪急への入団交渉を進めていたという。しかし、重複指名の末に近鉄が独占交渉権を獲得したことを受け、ドラフト前から親密な関係を持っていた阪急球団に申し訳なく思い、当時阪急の打撃コーチであった長池の自宅を泣きながら訪問。長池や当時の阪急スカウト・三輪田勝利から「近鉄で頑張れ」と激励されたことから、近鉄への入団を決意した。年俸400万円、契約金5500万円[9][10]


近鉄時代

ドラフト会議では、阪急・近鉄の両球団から
投手として指名。しかし、近鉄への入団直後に内野手へ転向した。金村本人は、現役からの引退後に、「高校3年生春の全国大会で投げ合った槇原が最速147km/hのストレートを投げている姿を見て、『俺はプロに入っても投手では通用しない』と悟った。夏の全国大会で優勝できたのは、カットボール変化球で打者の打ち気をかわすことに徹したからに過ぎない」と明かしている[11]

入団1年目の1982年には、ウエスタン・リーグ公式戦全試合へ出場。同リーグの選抜メンバーとしてスタメンで出場したジュニアオールスターゲーム横浜スタジアム)では、メンバーの1人だった斉藤浩行広島東洋カープ内野手)から試合前に譲り受けたバットで第4打席までにサイクルヒット二塁打 → 本塁打 → 西武ライオンズに入団した工藤からの三塁打 → 単打)を記録すると共に、MVPへ選ばれた。


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