金時鐘
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実業家の金田時男(韓国名:金時鐘)」とは別人です。

金時鐘
 
各種表記
ハングル:???
漢字:金時鐘
発音:キムシジョン
日本語読み:きん ししょう
ラテン文字表記:Gim Sijong
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金 時鐘(???、1929年1月17日 - )は、在日朝鮮人詩人朝鮮文学者。
経歴

1929年朝鮮釜山市[1]生まれ。幼名はパウ(岩いわお)[2]。父は元山市出身の金鑚國、母は済州市出身の金蓮春[3]。父は旧制中学に通い、三・一運動に参加。[4]1932年春、元山市の祖父のもとに一時預けられる[5]。その後済州市の城内(ソンネ)に移り住み[6]公立北小学校(普通学校、後に国民学校)に入学するが、幼い頃から虚弱体質だったこともあり[7]、熱病に見舞われ一年生をやり直す[8]。小学校時代は父が所蔵していた日本語の『トルストイ全集』や図書室の『世界文学全集』(新潮社)等を読み耽り[3][9][10]、級友の影響もあり詩に親しむ[11]。また日本の童謡小学唱歌昔話に親しみ、学校では天皇の赤子になることを諭され、内鮮一体大東亜共栄圏八紘一宇を信じて過ごす[12]。同窓生が皇民化教育に反発するも本人は朝鮮語に疎くハングルひとつ書き取れないまま終戦を迎える[13][14][15]。小学6年を真珠湾攻撃で迎え兵学校に進学することを志すも父親から涙され、父の意向である師範学校を受験する[16]1942年官立光州師範学校入学[17]、二年の時に父から送られた『乳色の雲』(金素雲訳、河出書房)を熟読し、詩心を知る。済州島に帰郷していた17歳の時に「解放」に出会い、「皇国少年」として「天皇陛下への申し訳無さからむせぶ」[18]解放の熱気からは外れていたものの以後「国語(クゴ)」「歴史」を「自分の在所探し運動」を率いていた崔賢先生の「灯火学習会」下で勉強し過ごす中で朝鮮人としての自覚を深め、そこで習った詩人李陸史に感銘を受ける[19][20][21]。この時起きていた漢拏団事件の軍政裁判を見て歯ぎしりを覚える[22]。これと前後して父に連れられて越北をするも警察隊に逮捕される[23]。その後釈放されるも、「登校拒否者」「赤色(共産主義)同調者」として学校からは除籍される[24]。同師範学校尋常科には四学年まで在籍[17]

1945年末に「読書会」で出会った朝鮮共産党全羅南道委員会学生党員・白順赫の影響で人民委員会に所属し、1946年夏には「いっぱしの学生活動家気取り」で務めをする[25]。「解放」を手にしたにもかかわらず親日派右翼の顔役たちが復権し米軍が占領政策の軍政を敷いている現状に正義感を覚え、呂運亨朴憲永といった人物、社会主義に共鳴し、1946年12月南朝鮮労働党に入党[26]1947年1月15日に教員養成所の嘱託として連絡員に就く[27]、その後三一節記念集会準備委員会に加わる[28]。同年3月1日三・一節二十八周年島民大会に五賢中学校学生合同記念集会の一団整理員として参加、目の前で警察隊の発砲現場に立ち会う[29]。翌日から「三・一事件対策闘争委員会」の作業に加わり、3月10日から始まったゼネストでは自身も検挙され2週間程度勾留される[30]1948年済州島四・三事件では4月3日当日「山部隊」の一部グループを率いて立て看をくくりつける、ビラ撒きを行う[31]。その後5月から始まる米軍政による「焦土作戦」に遭遇[32]、この時親戚の従姉の夫を亡くし[33]、自身も警戒網に引っかかるが小学校の同窓生で警官になっていた者に助けられる[34]。5月末党員が射殺された事件への報復として中央郵便局を襲撃する命を受け実行、その後講習会で一緒だった友人に助けてもらい難を逃れ、父の縁故の者や母方の叔父、従姉の家を転々とする[35]。翌1949年5月26日父の手配でクァンタルという無人島に水筒、炒り豆、五十銭紙幣、学生服を持って逃れる。4日待ってやって来た日本への密航船に乗り込む[36]。同年6月5日に神戸沖(須磨付近)に単身上陸したのち、母方の親戚を頼ろうとしばらく大阪を放浪、梅田を経由し鶴橋にたどり着く[37]。しかし疲労困憊し諦めて北朝鮮へ送還してもらおうと警官に自首しようとしたところを「金井さん」に助けられて、大阪市生野区猪飼野一条通り中一丁目にある長屋、コリアンタウンに行き着き、しばらくローソク作りで生計を立てる[38][39][40]。ローソク作りが行き詰まると出入り業者の計らいで鶏舎長屋と呼ばれた南生野町で下宿暮らしをしながら、布施市高井田にある石鹸工場で働く。

1950年1月日本共産党に入党、2月在日朝鮮統一民主戦線大阪府本部に詰める[41]1951年在日朝鮮統一民主戦線の活動に参加[42]。同年3月韓鶴洙学校長の下で中西朝鮮学校再開の活動に参加[43]、同時期在日本朝鮮民主愛国青年同盟の中核部隊「祖国防衛隊」機関紙『セチョソン』(通称:マルセ)編集(編集長は白佑勝)を勤める[44]。同年10月在日朝鮮文化人協会結成[5]、金鐘鳴を中心に姜在彦、呉在陽、高昇孝等と共に『朝鮮評論』創刊、この時金石範と出会う[45]


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