金春流
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金春流(こんぱる-りゅう)は能楽流派の一。こんぱるの読みに対して、明治維新までの表記では「今春」・「今晴」としているものもある。大和猿楽四座(やまとさるがくよざ)の一つである円満井座(旧えんまんいざ・現在えんまいざ)を前身としている。明治維新まではシテ方金春流、大鼓方金春流、太鼓方金春流が存在したが、大鼓方(おおつづみかた)金春流が明治期に廃絶したため、現在ではシテ方と太鼓方(たいこかた)が残っている。
シテ方金春流

能楽最古の歴史を有する流儀であり、室町時代前期に奈良春日大社興福寺に奉仕した円満井座・金春座・竹田座が前身で、伝説の上では聖徳太子に近侍した秦河勝を初世としており、現宗家金春憲和を八十一世としている。直接の祖先としては同座の中心的な太夫として活躍した室町時代の五十三世宗家毘沙王権守が記録をたどれる最も古い人物である。その三男金春権守が流儀の基礎を築き、金春権守のである五十七世宗家金春禅竹を流儀中興の祖とする。宝山寺に所蔵されている金春禅竹自筆の円満井座系図に、上宮王太子(聖徳太子)、秦河勝、秦氏安、毘沙王権守から金春禅竹までの系図が残されている。[1]

流儀中興の祖、五十七世金春禅竹は能楽の大成者世阿弥の娘婿で、世阿弥から『六義』『拾玉得花』のほか多くの伝書を相伝されるなど、世阿弥とは親密な関係であった。岳父の薫陶を得た禅竹は、名曲と謳われる「杜若」や「野宮」などの能作、また『六輪一露之記』『歌舞髄脳記』『明宿集』など、多くの伝書を残すなど、世阿弥の事績を受け継ぎ能楽大成に大きく寄与した。

禅竹以後も能作者として有名な五十九世金春禅鳳や伝書を書き残した六十二世金春安照などを輩出した。安照は太閤豊臣秀吉に贔屓庇護され、金春流は能楽の中で重きをなした。江戸時代よりは観世座に次ぐ序列で、金春八左衛門家、竹田権兵衛家、大蔵大夫家など多くの分家を有した。現在の主な地盤は、東京・奈良・名古屋・熊本・福岡・鹿児島などで、芸風は、謡も型も古い様式を随所に残す、古風で素朴雄渾なものと言われる。
円満井座創座を巡る伝承

禅竹は、自家に伝わる伝承を基に『明宿集』を物し、猿楽の創始について述べている。

「明宿集」によれば、日本における猿楽の創始者は聖徳太子の寵臣・秦河勝であったとされる。河勝は太子に従って物部守屋討伐などに功を挙げる一方、太子に命じられて猿楽の技を行い、天下の太平を祈願した(禅竹は河勝を「」の化身とし、また始皇帝の転生と見た)。その後河勝の三人の子のうち、末子が猿楽の芸を引き継ぎ、代々継承したといい、村上天皇の代にはその末裔・秦氏安が紫宸殿で「翁」を演じた。この氏安が円満井座の中興の祖となり、以下禅竹に至るまで代々猿楽の徒として活躍したという。
金春禅竹の活躍

金春流と金剛流は、観阿弥らが京都に進出したのちもながらく奈良を本拠地とし、そこにとどまっていたが、禅竹のころから徐々に京都に進出していった。世阿弥に師事し、その娘婿となった禅竹は、世阿弥から「拾玉得花」「花鏡」等の伝書を相伝するとともに、その演技によって当時の知識人たちから人気を集めた。また禅竹は作能にもすぐれた手腕を見せ、「定家」「芭蕉」「杜若」など現在でも演じられる佳曲を次々と生みだした。さらに「六輪一露の説」を中心とする芸論においても後代に大きな影響を与えた。
金春禅鳳

このように世阿弥没後の猿楽にあって、禅竹を中心とする金春流はひろい人気を集め、大勢力となった。この時期特に活躍した人物としては禅竹の孫にあたる金春禅鳳(五十九世宗家)がいる。禅鳳は風流能の流行を担った中心的な作者であり、「生田敦盛」「初雪」などを書いた。
全盛期

金春流がその全盛期を迎えたのは、戦国時代末期、特に豊臣秀吉天下統一を果たしてからである。金春安照(六十二世宗家)に秀吉が師事したために、金春流は公的な催能の際には中心的な役割を果たし、政権公認の流儀として各地の武将たちにもてはやされることとなった。秀吉作のいわゆる「太閤能」も安照らによって型付されたものである。安照は小柄で醜貌と恵まれない外見だったと伝えられるが、重厚な芸風によって能界を圧倒し、大量の芸論や型付を書残すなど、当時を代表する太夫の一人であった。

この当時の金春流を代表する人物として、もう一人下間少進が挙げられる。本願寺坊官である少進は金春喜勝(笈蓮。安照の父。六十一世宗家)に師事した手猿楽の第一人者で、各地の大名を弟子に持ち、金春流では長らく途絶していた秘曲「関寺小町」を復活させ、「童舞抄」などの伝書を記すなどの活躍を見せた。
近世期

江戸幕府開府後も、金春流はその勢力を認められて四座のなかでは観世流に次ぐ第二位とされたものの、豊臣家とあまりに親密であったことが災いし、流派は停滞期に入ってゆく。その一方で観世流徳川家康が、喜多流徳川秀忠が、宝生流徳川綱吉が愛好し、その影響によって各地の大名のあいだで流行していった。

この時期、金春流は特に奈良と深い関係を持ち、領地を拝領し(他の流派は扶持米)、ほかの流儀が興福寺との関係をうすれさせゆくなかで薪能に謹仕するなど、独特の態度を見せた。地方で行われる神事の中には、金春流の影響を受けたものが少なくない。また大和の所領では幕末、兌換紙幣である金春札を発行するなど、経済的にも恵まれていた。しかしこの金春札は、維新後の混乱で価値を失い、金春家が経済的に没落する原因の一つともなった。[2]
維新後

明治維新後、金春宗家は奈良などで細々と演能を続けているにすぎなかったが、こうした流儀の危機にあって一人気を吐いたのが、宝生九郎梅若実とともに「明治の三名人」といわれた桜間伴馬(後に左陣)である。熊本藩細川家に仕えていた桜間家は維新後に上京。能楽全体が危殆に瀕していた時期にあって、舞台装束、面などが思うように手に入らない劣悪な環境のなかで、宝生九郎らの援助によって演能をつづけ、東京における金春流の孤塁を守った。伴馬の子・桜間弓川も父の後を承けて活躍した。

その後は桜間道雄のほか、七十八世宗家金春光太郎(八条)の長男・金春信高が上京し、奈良にとどまった叔父・栄治郎(七十七世宗家)などともに流儀の頽勢を挽回すべくつとめた。七十九世宗家を襲った信高は、他流に比べて整備の遅れていた謡本を改訂し(昭和版)、復曲などによる現行曲の増補につとめ(金春流の所演曲は五流のなかでももっとも少なく、大正末年の時点で153曲しかなかった。しかもこのなかには「姨捨」「砧」など多くの秘曲・人気曲が含まれておらず、この点が流勢低迷の要因の一ともなっていた)、積極的に女流能楽師を認めるなど、多くの改革を行った。
現状

現在、シテ方金春流は東京、奈良、熊本名古屋などを主たる地盤として活動し、能楽協会に登録される役者は100名強である。型、謡とも濃厚に下掛りの特色を残し、芸風は五流のなかでももっとも古風と評される。宗家は信高の長男八十世金春安明(こんぱるやすあき)が継承した後に、現在安明の長男金春憲和(こんぱるのりかず)が八十一世宗家を継承している。.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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主な宗家
明治維新以前歴代宗家


世氏名法名・通称・号等コメント
初世
秦河勝(はだのこうかつ)聖徳太子時代(飛鳥時代、西暦600年頃)の人。宗家系図では秦河勝を遠祖とする。
?秦氏安(はだのうじやす)平安時代、村上天皇の命で紫宸殿にて現代の翁の原型となる猿楽の奉納を行う。
五十三世毘沙王権守(びしゃおうごんのかみ)南北朝時代の人で秦河勝から53世。猿楽(能)の家として事実上の流祖とみられる。長男に光太郎(54世)、次男に千徳、三男に金春権守(こんぱるごんのかみ)がいる。在名・竹田と記述している文献あり。
五十七世金春氏信(こんぱるうじのぶ)金春禅竹(こんぱるぜんちく)1405?1470頃。金春権守の孫。金春弥三郎の子。金春流中興の祖と呼ばれる。世阿弥の女婿で世阿弥と禅竹は師弟関係にあり、世阿弥の業績を継承発展させた。「野宮」「芭蕉」「定家」など多くの名曲と、『六輪一露之記』など数々の伝書を残した。
五十九世金春八郎元安(こんぱるはちろうもとやす)金春禅鳳(こんぱるぜんぽう)1454年生まれ。


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