この項目では、日本統治時代の朝鮮の政治家について説明しています。その他の用法については「キム・ソンス」をご覧ください。
大韓帝国→大日本帝国→大韓民国の政治家金性洙
???
生年月日 (1891-10-11) 1891年10月11日
出生地 李氏朝鮮、全羅道高敞郡富安面
金性洙
各種表記
ハングル:???
漢字:金性洙
発音:キム・ソンス
日本語読み:きん せいしゅ
ローマ字:Kim Sung-soo
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金 性洙(キム・ソンス、朝鮮語: ???、 光緒17年9月9日(1891年10月11日) - 1955年2月18日)は、日本統治時代の朝鮮の実業家、独立運動家。大韓民国の政治家、教育者、言論人。本貫は蔚山金氏(朝鮮語版)[1]。『東亜日報』や高麗大学校、韓国民主党などの設立者としても知られる。朝鮮独立のためには実力の養成が必要だとして、朝鮮人の立場を代弁するメディアとして『東亜日報』を、人材の育成を目的に中央高等学校と高麗大学校を設立した。実業家としても、京城紡織を中心に綿紡績・ナイロン生産に従事し、朝鮮内のみならず満州にまで事業範囲を伸ばしたが、このことにより、韓国では、2002年に発表された親日派708人名簿に登録され、2005年には民族問題研究所による親日派リストに含まれた[2]。1951年5月 - 1952年8月 第2任大韓民国の副統領。字は判錫(パンソク、??)、号は「仁村」(インチョン、??)。
生涯東亜日報社屋内に建つ金性洙像
金?中の四男として全羅北道高敞郡富安面に生まれる。金一族は祖父の代から所有地を増やし、父の?中はその財力で地方官吏(郡守)となり、更に韓国統監府・朝鮮総督府の土地整理政策に協力することで資産を増大させ、併合後は朝鮮一の大地主と呼ばれるに到った人物である。正則英語学校、錦城学校尋常中学校を経て早稲田大学政治経済学部を卒業した。在学中は日本内地への朝鮮人留学生に資金面での援助を行い、後の人脈に大きく寄与している。帰国して教職を務める等した後、1919年に家業の紡績業を近代資本主義的会社である京城紡織として改組する。
1920年には東亜日報を設立し、1932年には財政難に陥った普成専門学校の経営を引き受け、今日の高麗大学校を設立した。東亜日報の文盲退治運動(ハングル文字普及運動)は購読者拡大、また紙面での民族品愛用運動も内地産品に品質で劣る京城紡織製品の販売促進、といった経営上の思惑もあったものの、それを超えて民族意識の高まりに貢献した。