この項目では、大韓帝国軍及び大日本帝国陸軍の軍人について説明しています。大韓民国の彫刻家の金運成については「キム・ウンソン (芸術家)」をご覧ください。
金應善
各種表記
ハングル:???
漢字:金應善
発音:キム・ウンソン
日本語読み:きんおうぜん
ローマ字:Kim Eung-Sung
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金 應善(きん おうぜん、キム・ウンソン、1881年(李氏朝鮮・高宗18年/大日本帝国・明治4年[注釈 1])5月26日 ? 1932年(昭和7年)8月2日)は、大韓帝国軍及び大日本帝国陸軍の軍人。陸軍士官学校 (日本) 15期。大日本帝国陸軍における最終階級は陸軍少将。 平安南道安州の出身[注釈 2]。日清戦争(1894年(明治27年) - 1895年(明治28年))に際し、大日本帝国陸軍の参謀本部第2局員であった[1]宇都宮太郎(陸軍歩兵大尉[1]。のち陸軍大将)の知遇を得た。金は20歳年長の宇都宮(1922年(大正11年)に死去)から弟同然に可愛がられ、庇護を受け、後には宇都宮金吾(うつのみや・きんご)という日本名を名乗ったほどであった[注釈 3]。 宇都宮の庇護を受けるようになった金は、1896年(明治29年)1月に、陸軍士官学校 (日本)に、李氏朝鮮から多数の外国陸軍将校候補者(留学生)が入校した際の一員に選ばれた。「陸軍士官学校_(日本)#留学生」を参照 1903年(明治36年)11月30日に陸軍士官学校 (日本) 15期を卒業し、近衛歩兵第1連隊附。日露戦争(1904年(明治37年) - 1905年(明治38年))には、大日本帝国陸軍将校の扱いで出征した。 日露戦争の終結後は大韓帝国武官となり、陸軍武官学校学徒隊附。1905年に特派大使随行員として訪日した際は、日本政府から勲六等単光旭日章を授与された。 1907年(明治40年)に大韓帝国軍が解散すると、大韓帝国皇太子・李垠の陪従武官に任ぜられ、ほぼ時を同じくして、日露戦争での戦功により、日本政府から勲五等双光旭日章及び恩賜金500円を授与された。同年11月に李垠の日本留学に随行した際は、同じく日本政府から勲四等瑞宝章を授与された。 1910年(明治43年)の韓国併合に際しては、旧大韓帝国軍人の中でも優秀者としての評価を受け、朝鮮駐剳軍司令部附となった。 1920年(大正9年)、「朝鮮軍人ヲ陸軍将校同相当官ニ任用等ニ関スル件」(大正9年勅令第118号)により、朝鮮軍人たる陸軍歩兵副領[3]から、陸軍歩兵中佐[3]に転官した。「朝鮮軍人#概要」を参照 1923年(大正12年)、陸軍歩兵大佐に進級。1931年(昭和6年)、陸軍少将に進級し、同年に予備役となった。 趙性根が委員長を務める「満蒙在住同胞後援会」の委員に就任したが、予備役となった翌年の1932年(昭和7年)に死去。51歳没。 大韓民国において、2005年に民族問題研究所が「親日人名辞書」に収録するために整理した「親日派リスト」(1次名簿)の軍人部門に収録された。2007年に親日反民族行為真相糾明委員会が発表した「親日反民族行為195人名簿」の軍人部門にも収録されている。
人物
韓国での現在の評価
脚注
注釈^ 金は1881年に李氏朝鮮で出生しているが、主なキャリアが大日本帝国陸軍軍人としてのものであるため、理解の便宜上、西暦に大日本帝国の元号を付した。以下も同じ。
^ 日清戦争の際には13歳 - 14歳であった金が、宇都宮太郎・大日本帝国陸軍歩兵大尉の知遇を得るより前の経歴は不明である。
^ 宇都宮太郎が1922年(大正11年)に死去した後の1926年(大正15年)6月2日付の朝鮮軍参謀長名の公文書に「陸軍歩兵大佐 金應善」と記載されており、本名は金應善のままであった[2]。
出典^ a b 秦 2005, p. 25, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-宇都宮太郎
^ 「奉訣式当日陸軍ニ於ケル国葬係員
^ a b 「陸軍歩兵中佐金応善外四名叙勲並勲章加授ノ件
参考文献
秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。
関連項目
親日派