金大中の長男「金弘一」とは別人です。
金弘壹
外務部長官(1961年5月20日)
渾名五星将軍
生誕1898年9月23日
大韓帝国平安北道龍川郡
死没 (1980-08-08) 1980年8月8日(81歳没)
大韓民国ソウル
所属組織独立軍
国民革命軍
韓国光復軍
大韓民国陸軍
軍歴1925-1948(中国軍)
1945(光復軍)
1948-1951(韓国陸軍)
最終階級 中将(中国軍)[1][注釈 1]
参将(光復軍)[2]
中将(韓国陸軍)
除隊後外交官、国会議員
墓所国立ソウル顕忠院国家有功者第2墓域[3]
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金弘壹
各種表記
ハングル:???
発音:キム・ホンイル
ローマ字:Kim Hong-il
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金 弘壹(キム・ホンイル、???、1898年9月23日 - 1980年8月8日)は大韓民国の軍人、外交官、政治家。乳名は金弘日(キム・ホンイル、???)。別名は崔世平(チェ・セピョン、???)。中国名は王雄、王逸曙、王復高。本貫は金海金氏。号は逸曙(??)。金弘一、金弘壱、金弘逸とも表記される。甥に金英哉がいる。
日韓併合時、中国に亡命して大韓民国臨時政府に属した独立運動家の一人。大韓民国成立後は韓国陸軍に入隊し、朝鮮戦争初期の遅延戦において重要な働きをした[4]。朴正煕政権時代は反対派野党の精神的支柱として重きを為した[5]。 1898年9月23日、平安北道龍川郡楊下面五松洞に金振健(キム・チンゴン、???)の三男として生まれる。父が運営していた私塾「楓谷齋」で小学生課程を終える。中国に渡り、瀋陽の小西辺門外両等学校高等科に入学するが、差別によって一学期だけ終えて帰国した。 1918年春、独立運動家の゙晩植が校長であった五山学校を首席で卒業[6][7]。卒業後、李昇薫の推薦で黄海道の?新学校の教師となるが、抗日活動で警察に逮捕される[8]。出獄後、兄の金弘翊や五山学校で同窓だった金承?の助けを借り、1918年9月に上海に亡命[6][9]。1918年12月、韓国臨時政府と中国人の知人の助けを借りて貴州陸軍講武学校第2期に特別入学[10]。 貴州陸軍講武学校[11]歩兵科と貴州陸軍実施学校山砲兵科を卒業[5]。
生涯
大陸での活動