金屋石(かなやいし)は緑色凝灰岩(英: green tuff)の一種。富山県砺波市庄川町の庄川右岸、合口ダムから小牧発電所対岸の付近一帯で採掘される石材。青白色で福井県の笏谷石によく似ている。柔らかい緑色凝灰岩であるため加工がしやすく、弾力性に富む。古くから金沢城や辰巳用水などの石管に使われたほか、土蔵・地蔵堂などの建材や神社や寺院の狛犬や灯籠などに用いられた。採掘は江戸時代に始まり、幕末に進展して明治時代に最盛期を迎えるが戦前・戦後を通してコンクリートの普及などで大きな打撃を受け、昭和40年代に採掘を停止した。金屋石採掘跡、金屋石石管 附.石工道具は ⇒砺波市ふるさと文化財に登録されている。 バリウム・ベリリウム・カドミウム・銅・マンガン・鉛・ストロンチウム・バナジウム・亜鉛など。 日本列島の大半がまだ海中にあった新生代第三紀の前半、火山が噴火して噴出した火山灰や砂礫が海水中に沈殿して、それが凝固してできたものとされている。 砺波市庄川町付近の金屋石の分布は、東西0.5km、南北1kmにわたり埋蔵していると推定されている。埋蔵量は不明。 1632年に行われた金沢城の再建に金屋石が用いられたのが最初かも知れないが、大々的に使用されることになったのは天保年間以降であろう。金屋石の採掘は石灰の生産と同時期の天保年間以降に始められたものと推測される。大掛かりな採掘・販売は、天保の改革によって社会の流通経済機構が大きく変化し、加賀藩がそれに対処しようと新しい産業の振興に力を注いだ結果だと思われる。辰巳用水 藩政初期のころ 1632年(寛永9年)に金沢城を再建した際、前田利常は小松の町人板屋平四郎に命じて城から10km隔てた犀川上流の上辰巳からサイフォンを利用して城内に飲料水を送る工事を行い、辰巳用水を作った。送水管は長さ1.0?1.3mの金屋石製の石管(樋石)で、継ぎ目には松やになどの接着剤で漏水を防いだ。ただこの事について確かな記録は残っておらず、伝承として今に伝えられている。 藩政末期のころ 金沢城に関する資料で、金屋石が初めて登場するのは「金沢城保存修理工事概要」で、藩政末期の天保年間(1830年?)以後の工事とみられる。 城への運搬方法
成分
成因
分布金屋石採掘跡周辺の地形3Dモデル(2015年、金屋石を語る会作成)
特徴
美しい緑色をしている。
耐火性にすぐれている。
石の重量が軽い。
石質が柔らかいため、加工が容易である。
用途に使われたほか、土蔵・地蔵堂などの建材や神社や寺院の狛犬や灯籠などに用いられた。
金屋石にまつわる歴史辰巳用水の石管
1632年(寛永9年) 加賀藩主前田利常が金沢城の再建に金屋石の石管(樋石)を用いた。(伝承)
1830年(天保元年)? 金沢城の記録に金屋石が登場する。
1845年(弘化2年) 金屋岩黒村に伊右衛門・六兵衛・与三郎・伝右衛門・兵三郎・庄兵衛・九次郎・栄次郎の8軒の石屋が記録される[1]。
1852年(嘉永5年) 十村役が金屋岩黒村の石工と山主に採掘の差し止めを申し渡すが、間もなく再開され金沢への御用石の切り出しが行われた。
1858年(安政5年) 安政の大地震が起こり、青島村の伝四郎らは飛騨の道路・河川などの災害復旧工事を請け負う。
1862年(文久2年) 青島村の伝四郎らは富山藩八尾の奥野積山の三ヶ用水拡張工事を請け負う。
1879年(明治12年)は石材工・木工業に携わる職人は18人だったが、1892年(明治25年)には49人に増加している。
1884年(明治17年) 砺波郡役所が課税を行うため石工に ⇒鑑札を交付。
1903年(明治36年) 青島・金屋において養蚕・製紙・薪炭に並ぶ主要産業となる。
1920年(大正9年) 金屋の藤掛清太郎ら19人が発起人となって金屋石材会社を設立
1923年(大正12年) 石材採掘に火薬を使用するようになり、井波警察分署へ岩石破砕願を提出する。
1926年(大正15年) 第一次世界大戦後の経済恐慌の余波を受けて金屋石材会社の資本金が半減する。
同年 現場を担当する石材職工組は改組独立して金屋石工組を組織。事務所は金屋石材会社内に置いた。
1930年(昭和5年) 金屋石材会社が解散
1937年(昭和12年) 金屋石工組が解散
1950年(昭和25年) ⇒県営富山球場のスタンド外壁の一部に金屋石が使用される。
1958年(昭和33年) 中川吉蔵・石森吉太郎・石沢米吉らは石材生産加工の立て直しを図る。
同年 文部省は重要文化財金沢城の石川門などの修築工事を行う。金屋石工の石沢米吉は石樋工事を破格値で請け負い、約1週間の突貫工事で立派に仕上げる。
戦後、建築材として販路を見い出したがコンクリートの普及により低迷期を迎える。しかし、庭園の灯籠など美術工芸品として再び脚光を浴びるが、石工職人は減少の一途をたどる。
1970年(昭和45年) 明治から続く石材店はわずか2軒となる。
金沢城と金屋石
1843年以降、運搬の際には金屋岩黒村肝煎源三郎と恒三が石材の生産責任者となり、それぞれ手合いを組織してその任務に当たった。金屋石は主に千保川を川舟で戸出まで下し、そこから高岡木町
1844年、樋石の輸送を命じられた金屋岩黒村の恒三は、8月中旬に樋石を千保川に下し、木町舟方に渡すことにしたが、氷見・海老江・六渡寺・灘浦の舟方は伏木から宮腰への海上輸送が秋口に入ったため波が高く、時節遅れであること、また宮腰は磯浜であり、積み上げが難しいので海上が和らぐ春まで延期してもらいたいと願い出た。