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金子 金五郎 九段
名前金子 金五郎
生年月日 (1902-01-06) 1902年1月6日
没年月日 (1990-01-06) 1990年1月6日(88歳没)
プロ入り年月日1920年(17歳)[注 1]
引退年月日1950年(48歳)
棋士番号3
出身地東京府(現:東京都)
所属将棋同盟社
→東京将棋連盟
→日本将棋連盟(関東)
→日本将棋革新協会
→将棋大成会(関東)
→日本将棋連盟(関東)
師匠土居市太郎名誉名人
弟子小堀清一、松田茂役、山川次彦、山田道美
段位九段
棋士DB金子 金五郎
順位戦最高クラスA級(1期)
2017年8月21日現在
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金子 金五郎(かねこ きんごろう、1902年〈明治35年〉1月6日 - 1990年〈平成2年〉1月6日)は、大正・昭和時代に活動した将棋棋士。九段。土居市太郎名誉名人門下。東京府(現:東京都)出身。棋士番号は3。 大正5年(1916年)、土居市太郎に入門。大正6年(1917年)、「将棋同盟社」において土居が師の関根金次郎と仲たがいし将棋界が分裂すると、土居門下の金子は「将棋同盟社」に残存した。 大正9年(1920年)に四段昇段。同年に國民新聞で主催された三派対抗戦に土居派を代表して出場。関根派の木村義雄、大崎熊雄派の飯塚勘一郎と対戦した。 大正13年(1924年)に三派が合同して東京将棋連盟が成立する。昭和7年(1932年)に八段となる。しかしかつてライバルであった木村には実力で大きく差をつけられてしまい、一時は角落ちまで指し込まれたこともあるという。 昭和10年(1935年)、実力制名人戦が開始されると、八段として挑戦者決定リーグに参加する。同年6月26日の花田長太郎との対戦がリーグ開幕であった。しかし、神田辰之助の八段昇段をめぐって棋界が分裂すると(神田事件)、同年11月に金子は花田と共に連盟より離脱し、神田と合流して「革新協会」を組織した。この分裂劇は、神田の支援者である大阪朝日新聞と連盟の最高顧問であった中島富治、それと幹事長であった金子らとの間に神田の八段昇段の密約があったが、正式に棋士会の承認を得ていなかったことが発端であり、反対派との板ばさみの形となってしまった金子に花田ら同情する棋士が多かったことが背景にある。 関根と小菅剣之助らの仲介により半年後に革新協会は連盟と再合流し、新たに結成された将棋大成会(日本将棋連盟の前身)に参加する。将棋大成会においても幹事長を務め(昭和13 - 16年[3])、名人となった木村を補佐して将棋界の発展に尽くした。 戦後、順位戦に3期参加した後、昭和25年(1950年)に引退。引退後に出家し、日蓮宗日本山妙法寺(金子の寺は当初は名古屋市にあり[4]、のち群馬県高崎市となる[5])の僧となった。法号は、金子行秀(カネコ ギョウシュウ) [6]。 昭和48年(1973年)に九段。平成2年(1990年)1月6日、88歳の誕生日に肺炎のため死去。 「序盤の金子」と称された理論派で、引退後は観戦記者として大山康晴・升田幸三の名勝負の魅力をファンに伝えた。「定跡とは、歴史です」という名言がある。1937年に博文館から創刊された雑誌「将棋世界」の初代編集長でもある[7]。また、雑誌「近代将棋」に「金子教室」を長年にわたり連載した。 愛知県知多郡旭村(長浦)に在住していたことがあり、名古屋出身の山田道美はその時代に半年ほど金子の内弟子となった(のち、東京に移って奨励会員になる)[8]。
経歴
人物