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金子 直吉
生誕1866年7月24日
日本 土佐国
死没 (1944-02-27) 1944年2月27日(77歳没)
墓地高知市筆山と神戸市追谷霊園
出身校丁稚奉公
職業実業家
受賞正六位・勲四等瑞宝章
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金子 直吉(かねこ なおきち、慶応2年6月13日(1866年7月24日) - 昭和19年(1944年)2月27日)は、日本の実業家。丁稚奉公から身を起こし、鈴木商店の「大番頭」として大正時代には三井財閥、住友財閥、三菱財閥をしのぐ規模の企業グループに拡大させ財界のナポレオンともいわれた[1]。 慶応2年(1866年)、土佐藩領内で商家の子として生まれる。一家は直吉の幼少期に現在の高知市に移り住む。家が貧しいため学校にも行けず、10歳頃から高知市内に丁稚奉公に出る。荷車を引いて紙くずを集めたり砂糖店や乾物屋、質屋への丁稚奉公へ出た。独学で経済や中国古典などを学び、明治19年(1886年)、20歳で神戸の砂糖問屋・鈴木商店に入る。鈴木商店はすでに神戸八大貿易商の1つに数えられるようになっていた。明治27年(1894年)に当主の鈴木岩治郎が死去すると、未亡人の鈴木よね[2]が直吉と柳田富士松の両番頭に委任し、事業を継続する。その直後、直吉は樟脳の取引で損失を出すがよねはそのままの体制で経営を続ける。 大正3年(1914年)、第一次世界大戦が始まると世界中で投機的な買い付けを行う。直吉は同年11月に当時ロンドン支店長の高畑誠一に宛て「BUY ANY STEEL,ANY QUANTITY,AT ANY PRICE.」(意訳:金に糸目をつけず、ありったけの鉄・物資を買え。)と電報を打ったという[3]。ものすごい勢いの買い付けに、当時世間は金子の正気を疑ったという。国内は鉄不足であったが、アメリカ向けに完成した船と引換に鉄で支払いを受けるとの交渉をまとめ大きな利益を得た。この利益で多くの企業を系列傘下に収め、工場を増やし海外にも支店網を広げて鈴木商店を一大コンツェルンに築きあげた。これらの事業拡大の資金を提供していたのは台湾銀行であった。 貿易を日本人の手にという情熱が初期の直吉の原動力となっていたが、後にその情熱は日本国内の三井、三菱という既成財閥に向かう。大正6年(1917年)11月に高畑に宛て書いた手紙では「戦乱の変遷を利用し大儲けを為し三井三菱を圧倒する乎、然らざるも彼等と並んで天下を三分する乎、是鈴木商店全員の理想とする所也、小生、是が為生命を五年や十年縮小するもさらに厭うところに非ず」と記している[3][4]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
略歴
鈴木商店入社まで
世界的企業への舵取り後藤新平と交渉し、専売制を目論んでいた後藤と通じ台湾樟脳油の販売権のうち65%を獲得。虫除けの必需品で、欧米にも輸出し大きな利益を上げた。明治35年(1902年)に鈴木商店が鈴木合名に改組されたときには、社員(合名会社においては役員兼出資者の意味)に加えられた。明治36年(1903年)に住友樟脳製造所を買収。福岡県に大里製糖所を設立した。明治38年(1905年)、神戸製鋼所の前身の小林製鋼所を買収、大正4年(1915年)には米沢の織物工場を買収し人造絹糸の事業を始める(のちの帝人)。
時勢の急変、暗転へ