出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2014年5月)
きんじょう てつお
金城 哲夫
本名金城 哲夫
生年月日 (1938-07-05) 1938年7月5日
没年月日 (1976-02-26) 1976年2月26日(37歳没)
出生地 日本・東京府東京市芝区
(現:東京都港区芝[1])
出身地沖縄県島尻郡南風原町
死没地沖縄県
職業脚本家
活動期間1962 - 1976年
主な作品
1966年
『ウルトラQ』
『ウルトラマン』
『快獣ブースカ』
1967年
『ウルトラセブン』
1968年
『怪奇大作戦』
『マイティジャック』
1971年
『帰ってきたウルトラマン』第11話
テンプレートを表示
金城 哲夫(きんじょう てつお、1938年7月5日 - 1976年2月26日)は、日本の脚本家。沖縄県島尻郡南風原町出身。第一期ウルトラシリーズを企画し、文芸部長としてシリーズの基礎を作り上げた一人である[2]。 1938年に東京で生まれたが、中学までを沖縄で過ごした[出典 1]。中学卒業後の1955年、那覇高校の受験に失敗、上京して玉川学園高等部、玉川大学文学部教育学科卒業。高校時代は金星の研究をするSFクラブ「日金友好協会」を結成したり、友人たちと結成した「沖縄慰問隊」でアメリカ統治時代の沖縄を訪問するなど、リーダーシップを少年時代から発揮していた[5]。玉川時代に、入試の面接官であった上原輝男から民俗学を学び、研究するようになる[4]。大学の専任講師である上原輝男の影響を受け、脚本に興味を持ち始める[出典 2]。上京した際に上原より教え子の一人だった円谷皐を介して円谷英二を紹介されて[6]、彼の自宅である円谷特技研究所に出入りしながら東宝特撮映画で健筆を振るっていた関沢新一から脚本家としての指導を受ける[出典 3]。関沢の薫陶による「ポジティブな娯楽(エンターテインメント)志向」は以後の金城の作風の根幹をなした。1962年、TBSのテレビドラマ『絆』でデビュー[出典 4]。同年、一度帰郷し長編映画『吉屋チルー物語』を自主制作[出典 5]。 1963年4月に設立された円谷特技プロダクションへ参画、企画文芸室長として『ウルトラQ』『ウルトラマン』『快獣ブースカ』『ウルトラセブン』など、黎明期の円谷プロが製作した特撮テレビ映画の企画立案と脚本を手掛ける[出典 6]。『ウルトラQ』『ウルトラマン』の相次ぐ高視聴率により怪獣ブームを巻き起こし順風満帆かと思われたが、大人向けの特撮を目指した1968年製作の『マイティジャック』は、平均視聴率が8.3%と低迷したために1クールで打ち切りとなってしまう。挽回を図った『怪奇大作戦』は、平均視聴率22%と健闘したものの、番組の提供スポンサーが「ウルトラマンに比べて低い」という判断を下したために、予定の2クールで終了[注釈 1]。番組の受注が途絶えた円谷プロは経営状態の悪化に伴い、大幅なリストラを敢行し始める。その煽りで文芸部も廃され、以前のような発言力を失った金城は今後はシナリオライターではなくフリーのプロデューサーへ専念するように迫られたことで、1969年に円谷プロを退社した[5]。 その後は沖縄県に帰郷し、琉球放送のラジオ番組「モーニング・パトロール」のパーソナリティー、沖縄芝居の脚本・演出、沖縄海洋博の構成・演出などで活躍した[5]。だが、海洋博の不振やラジオでの発言が地元住民からの不評を買い、酒に溺れる精神的に不安定な日々を過ごしていた[5]。 1976年2月23日、泥酔した状態で自宅の離れ[注釈 2]2階の書斎へ窓から直接入ろうとして足を滑らせ、転落[5][注釈 3]。直ちに病院に搬送されたが、3日後の2月26日に脳挫傷のため死去[5]。37歳没。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
来歴
評価
出典検索?: "金城哲夫"
自身の脚本執筆だけでなく、『ウルトラQ』では企画・文芸・制作プロデューサーとして活動し、各方面のシナリオライターへのプロットの発注や改訂作業を行い、監督と脚本のローテーションを組むなど「脚本監修」「シリーズ構成」の役割を担い、『ウルトラQ』・『ウルトラマン』・『ウルトラセブン』の高い完成度に貢献した、初期円谷プロ最大の功労者の一人[8]。オーソドックスながら骨太で力強いドラマ作りを行い、殊に映像化を念頭に置いた躍動感あふれるト書き[注釈 4]については高野宏一や中野稔といった特撮スタッフの多くが「非常に刺激になった」、「映像化への意欲を大いにそそられた」と口を揃えて証言している。また円谷プロ時代の同僚ライターであった上原正三は「金城が物語の本流を決めてくれていたからこそ、自分や実相寺昭雄が安心して変化球を投げることができた」と述懐している[10]。
『ウルトラセブン』に登場するキングジョーの名前は、金城もしくは自身の実父のあだ名が元ネタである[6][5]。