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金剛般若経
Vajracchedik?-prajn?p?ramit? S?tra
敦煌で発見された金剛般若経、咸通9年(868年)刊刻。大英図書館は「日付が確認できる世界最古の印刷物」とみなしている[1]
基本情報
宗教仏教
言語サンスクリット語
時期2-5世紀ごろと言われる[2]
金剛般若経 at 中国語 Wikisource
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金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)、正式名称:金剛般若波羅蜜経(こんごうはんにゃはらみつきょう、梵: Vajracchedik?-prajn?p?ramit? S?tra, ヴァジュラッチェーディカー・プラジュニャーパーラミター・スートラ)とは、大乗仏教の般若経典の1つ。略して金剛経(こんごうきょう)とも言う。その長さから、「三百頌般若経」等とも呼ばれる。その諸行無常を説いた節は、夢幻泡影(むげんほうよう)、泡沫夢幻(ほうまつむげん)と抜粋され四字熟語化された[3]。
比較的短編の経典であり、より大きな般若経典の要約・要綱として編纂されたとも考えられるが、用語や形式に原初的な要素が見られるため、3世紀以前の大乗仏教初期には既に成立していたと考えられている[4]。他の般若経典と同じく「空」思想を説くものでありながら、「空」の語彙が一度も用いられていないことも特徴の1つ。また、経の冒頭で「このように私は聞いた。ある時ブッダは舎衛国の祇園精舎に1250人の修行僧たちとともにおられた。」とあるあとで、一般的な経典ではその時の主な参加者の名前を列挙するが、金剛般若経ではいきなり本編が始まるのも原始的な経典の特徴と考えられている。
比較的短編であることと凝縮されたその内容から、インド、中央アジア、東アジア、チベット各地に普及・流行し、注釈書も数多く作られた。チベットやモンゴルでは、この経を「紺紙金泥」で写経する風習が現在まで続いている。東アジアでは、禅宗の第六祖(南宗初祖)である慧能がこの経の一句で大悟したとされ、禅宗で特に愛読される他、天台宗、三論宗、法相宗、真言宗といった宗派、あるいは中国、日本といった地域を問わず、更には儒家・道家に至るまで、百数十の註釈・講義が成立するなど、その影響は各方面に渡った。 原題は、「ヴァジュラ」(vajra)がインドラの武器である「金剛杵」あるいは「金剛石」(ダイヤモンド)、「チェーディカー」(chedik?)が「裁断」、「プラジュニャーパーラミター」(prajn?p?ramit?)が「般若波羅蜜」(智慧の完成)、「スートラ」(s?tra)が「経」、総じて「金剛杵(金剛石)のごとく(煩悩・執着を)裁断する般若波羅蜜(智慧の完成)の経」の意。 サンスクリット原本、漢訳、チベット語訳はいずれも現存しており、漢訳は下記の計8種がある。 歴史的には鳩摩羅什訳が最もよく普及・依用された。漢訳では最も古い鳩摩羅什訳にのみ末尾に音写の真言が付されている。また禅宗依用の坊本などにはこれとは異なる真言が付されているものもあるが、いずれもその経緯は解明されていない。なお、チベット訳は年代を下るので真言が付されている。[7]
題名
典籍
鳩摩羅什訳 『金剛般若波羅蜜経』(402年、大正蔵235)
菩提流支訳 『金剛般若波羅蜜経』(509年、大正蔵236a)
菩提流支訳 『金剛般若波羅蜜経』(509年、大正蔵236b、宋本のみ異テキスト[5])
真諦訳 『金剛般若波羅蜜経』(562年、大正蔵237)
達磨笈多(ダルマグプタ)訳 『金剛能断般若波羅蜜経』(590年以降、大正蔵238)
玄奘訳 『能断金剛般若波羅蜜多経』(648年、弘教蔵[6]般若部月9 玄奘は金剛経を2回漢訳しており、これは1回目の翻訳。大正蔵には収録されていない)
玄奘訳 『大般若波羅蜜多経』(660?663年、大正蔵220)全16会 600巻中 第577巻『第九会 能断金剛分』
義浄訳 『仏説能断金剛般若波羅蜜多経』(703年、大正蔵239)