金剛寺_(日野市)
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「高幡不動」はこの項目へ転送されています。同名の駅については「高幡不動駅」をご覧ください。

金剛寺
金剛寺 仁王門
(2009年5月26日撮影)
所在地東京都日野市高幡733
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度39分43.5秒 東経139度24分38秒 / 北緯35.662083度 東経139.41056度 / 35.662083; 139.41056座標: 北緯35度39分43.5秒 東経139度24分38秒 / 北緯35.662083度 東経139.41056度 / 35.662083; 139.41056
山号高幡山[1]
院号明王院
宗旨新義真言宗[2]
宗派真言宗智山派
寺格別格本山
本尊大日如来
創建年(伝)平安時代初期
開山(伝)円仁(慈覚)[1]
開基清和天皇(勅願)
中興義海[1]
正式名高幡山明王院金剛寺
別称高幡のお不動さん、高幡不動尊、高幡不動尊金剛寺、高幡不動
札所等関東三大不動尊
関東三十六不動 第9番
武相不動尊 第28番
東国花の寺百ヶ寺 東京7番
文化財不動明王二童子像、不動堂、仁王門ほか(重要文化財)
五部権現神牌(重要美術品)
公式サイト高幡不動尊金剛寺
法人番号1013405000199
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金剛寺(こんごうじ)は、東京都日野市高幡[注釈 1]にある真言宗智山派別格本山の寺院。高幡不動尊の通称で知られる。本尊は大日如来。高幡山明王院金剛寺と号する。
沿革

草創は古文書によれば大宝年間(701 ? 704)以前[2]とも、大宝年間に行基菩薩の開基し空海が不動明王を置いたとも伝えられるが[3]、寺伝によれば平安時代初期に円仁(慈覚大師)が清和天皇の勅願により東関鎮護の霊場を高幡山山上[4]に開いたのが始まりとされる。江戸時代、真言宗関東十一檀林の談義所として、多くの学僧を輩出している。

以来、「高幡のお不動さん」と呼ばれ人々の信仰を集めており、毎月28日の縁日には多くの参詣者で賑わう。成田山新勝寺などとともに、関東三大不動の一とされる。なお、関東三大不動の他の1つは總願寺(不動ヶ岡不動)、大山寺(大山不動)あるいは常楽院(高山不動)とされている。

新選組副長として活躍した土方歳三の菩提寺である縁から境内には土方歳三の銅像や近藤勇・土方歳三の殉節両雄の碑がある。歳三の墓のある愛宕山石田寺(あたごさんせきでんじ)は末寺のひとつである。5月第2日曜日には「ひの新選組まつり」も行われる。

都内有数のアジサイの名所としても知られ、6月上旬には境内奥の山には山アジサイが咲く。その他のあじさいは6月終わり頃までが見ごろである。

1982年10月1日に新東京百景の69番(順位ではなく番号)に選ばれている。
歴代貫主



1.
中興儀海上人

2.恵海

3.禅海

4.良宗

5.等海

6.珍海

7.尊海

8.増寶

9.増伝

10.亮海

11.--

12.--

13.--

14.--

15.--

16.--

17.--


18.祐盛

19.憲英

20.徹雅

21.覚雅

22.本浄

23.--

24.--

25.英雅

26.義光

27.盛雅

28.辨雅

29.賢雅

30.朝倉玉雅

31.丸山覚雅

32.秋山祐雅

33.川澄祐勝

34.杉田純一


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仁王門(重要文化財)

大日堂(総本堂)

不動堂(重要文化財)

奥殿(寺宝展示室)

五重塔

弁天池

鎮守 五部権現(都指定文化財)

殉節両雄の碑

文化財
重要文化財

木造不動明王及び二童子像
不動堂の本尊。不動明王坐像の向かって右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)像、左に制?迦童子(せいたかどうじ)像が立つ。不動明王像の像高は約2.8メートル。
建武2年(1335年)、不動堂が大風で倒壊した[5]際に大破し、康永元年(1342年)に修理されているが、各像とも根幹部分は平安時代後期の作である。現在、これらの像は奥殿に安置され、不動堂には、極彩色の等身大の身代わり本尊が新造・安置されている。

不動堂(附:勧進状) - 室町時代前期(1342年)の建立。桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、茅葺形銅板葺。昭和21年(1946年)11月29日指定。

仁王門 - 室町時代後期(1467年-1572年)の建立。三間一戸楼門、入母屋造、茅葺形銅板葺。昭和21年(1946年)11月29日指定。1959年に解体修理が行われ、楼門として復原。

鰐口 文永十年銘 - 鎌倉時代(1273年)の作品。面径57cm、肩厚13cm。昭和34年(1959年)06月27日指定。

高幡不動本尊像内文書 69通(附:文書断片51葉) - 南北朝時代の作品。この文書は暦応二年(一三三九)の常陸合戦に従軍して戦死した山内経之の菩提を弔うため、高幡不動の本尊不動明王の像内に収められて伝来したものである。これらは昭和初年に本尊の首の辺から束ねた形で取り出されたと伝え、昭和六十年から六十二年度に東京都と日野市教育委員会が行った調査報告によって広く世に紹介され、平成四年度の『日野市史史料集』編纂の過程で、断簡を含む六九通の文書と五一紙の断片類に分類整理がなされた。六九通のうち五〇通が筆跡等から山内経之自筆書状と認められ、この経之は文書からみて、山内首藤の支族として日野本郷の地に所領をもち、高幡殿(高麗助綱)、新井殿、青柳三郎といった近隣の在地領主層と密接な関係をもつ武士であったことがわかる。これら経之書状は平易な仮名文で、戦場からの書状には料紙の制約もあってか竪折紙を用いるなどの特徴がみえ、その内容も彼の日常生活に関するものをはじめ、常陸合戦の陣中や戦場から留守宅の妻子や高幡不動の僧侶などに充てたものがほとんどで、当時の東国武士の実態を赤裸々に伝えて価値が高い。ところで、これら納入文書の紙背には十四世紀頃とみられる不動明王ないし大黒天の印仏が捺されている。印仏の目的については諸説あるが、本文書群が山内経之の妻子やその関係者の手元にあった経之書状をことさら蒐め、これらを料紙として印仏を行っていることよりみれば、この印仏群が山内経之の親族関係者による経之供養のための作善遺品であることは明らかである。また本文書が納入されていた本尊は、像内納入墨書銘札等によって、建武二年の大風によって倒壊した本堂のため大破し、康永元年(一三四二)六月廿八日にその修復がなされたことが判明するから、おそらく本文書は経之の三回忌供養に際して故人との親交厚かった不動堂住僧との関係などを通じて、修復なった本尊の像内に納められたものであろう。


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