この項目では、香川県仲多度郡琴平町にある総本宮について説明しています。その他の神社については「金刀比羅神社」をご覧ください。
金刀比羅宮
本宮拝殿
所在地香川県仲多度郡琴平町字川西892番地1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度11分2.41秒 東経133度48分34.33秒 / 北緯34.1840028度 東経133.8095361度 / 34.1840028; 133.8095361 (金刀比羅宮)
金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する単立神社である。明治初年の神仏分離以前は金毘羅大権現と称し[1]、通称は「讃岐の金毘羅さん(さぬきのこんぴらさん)」[2]で知られる。明治初年以降に神社になってからの当宮の通称は「金比羅さん」である。
御朱印:金刀比羅宮(本宮前神札授与所)・白峰宮・厳魂神社(奥宮)
概要金刀比羅宮の参道
真言宗象頭山松尾寺の堂宇の一つとして神仏習合の金毘羅大権現を祀り、その別当として寺中の金光院が奉斎した。金毘羅大権現は隆盛し、本堂本尊十一面観音を凌駕し、後発の寺中であった金光院が全山を支配することとなる。目にあたる部分に寺院があり山容が象の頭に見えることから、また、釈迦が千人の弟子に説法をしたと云われるインドの伽耶山も象頭山と呼ばれ山容が似ていることから当山は象頭山と呼ばれた。明治初年に神仏分離・廃仏毀釈が実施されて、金毘羅権現の奉斎は廃止とし大物主を主祭神とする神社となり、神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部となった[3]。全国に約600ある金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社の総本宮である[4]。
当初はあらゆる分野の人々に信仰されていたが、19世紀中頃以降は特に海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集める。時代を超えた海上武人の信仰も篤く、戦前の大日本帝国海軍の慰霊祭だけではなく、戦後の日本特別掃海隊(朝鮮戦争における海上保安庁の掃海)の殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる。境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。
長く続く参道の石段は奥社まで1368段ある。例大祭に合わせて毎年、石段を利用した「こんぴら石段マラソン」が開かれている。 金刀比羅宮の由緒についてはいくつかの説があり、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするものである[5]。大宝元年十月の晴れ渡った青空から一竿の旗が舞い降りて象頭山に立ったため、この地に宮を建て旗宮と称したとある。別の説として、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山に住する護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする[6]。また別の説として、『生駒記讃陽綱目』の金刀比羅宮の條によれば、延喜式神名帳に名が見える讃岐国官社24社の1とされ讃岐国多度郡[7]の雲気神社[8][9]が金刀比羅宮という記述がある。 保元元年(1156年)讃岐国に配流された崇徳上皇は讃岐で崩御する前年の長寛元年(1163年)に当山境内の古籠所に参籠し、その附近の御所之尾を行宮した[10]と伝えられていることから、崩御の翌年の永万元年(1165年)に本社相殿に奉斎した[11]とされている。修験道の御霊信仰の影響であると云われている。 1573年(元亀4年)松尾寺金光院院主・宥雅[12]が、金毘羅堂を建立し金毘羅大権現を祀る。その後、1579年(天正7年)長宗我部元親が侵攻してくるとその敵方だった長尾氏の一族であった院主の宥雅は宝物などを持って堺に亡命する。(この人物を後の時代に金毘羅宮は正当な院主と認めず宝物の返還要求の訴訟を起こして勝利している。) 長曽我部元親はこの山の松尾寺(金毘羅宮は松尾寺別当だった)を殊更に重視し土佐から宥厳[13]を院主に据え、1584年(天正12年)には仁王堂(現在は賢木門)を建立するなど寄進をした。しかし、秀吉軍との戦いで5年ほどで長曽我部勢力は讃岐から退去する。ある意味元親と宥厳も金毘羅宮の再建者との見方が出来るのであるが現代に於いてこの二人の名前は金毘羅宮では抹消されている。江戸半ばに讃岐では戦国期の寺社の荒廃はすべて長曾我部の侵略の為とする風潮があり、現代になっても地元ではその構図が続いている為である。金毘羅宮には多くの歴史的建造物があり、それらには立派な説明板が付けられているがこの再建に於いて最初に建立されたこの仁王門にだけ付けられていない。なお、有名な江戸時代末期の民謡『金毘羅船々』の歌詞に「金毘羅信仰忘れちゃいけない シュラシュシュシュ 長宗我部元親 神罰恐れて 逆さに建てたる賢木門」という一節があり、元親の事跡を伝えている。そして、1600年に宥厳は元親により土佐へ呼び戻され、その弟子の宥盛が跡を継ぎ金光院院主となる[14]。宥盛は翌年には徳島・松山に金毘羅権現を勧請し四国のみならず東北地方まで巡り信仰を広め、荒廃していた境内を整備した。宥盛は死の直前には神体を守るために天狗に身を変えたとの伝説もあり、今は讃岐三天狗の一狗で金剛坊と呼ばれる(他は八栗寺の中将坊と白峯寺の相模坊)。1606年自らの像を作って本殿脇に祀り1613年亡くなった後しばらくして観音堂後堂の威徳殿[15]に尊体は法衣長頭襟姿で脇に不動明王と毘沙門天を配し[16]秘仏として祀られていたが、現在は奥社に祀られている[17]。 近世に入ると、高松藩主の生駒氏により崇敬され、代々社領が寄進された[18]。1642年(寛永19年)に高松藩主が徳川光圀の兄である松平頼重に交代すると、頼重は当宮を崇敬して社領を加増したほか、正保4年(1647年)330石の社領地を大名ではなく将軍が安堵する朱印地とすることに成功した[18]。これにより当宮を管理する別当職の金光院の地位も向上し、将軍の代替わりの度に出府して謁見することが許され、また別当が交代する時にも参府して将軍に謁見する「継目御礼」が認められた[18]。その後も、頼重は寄進を続け主な建物だけでも1651年に仁王門(現在の大門)を新築、1659年に本社造営、1673年に13間5尺余(高さ約25m)と云われる大型の多宝塔の建立など山内の建物は一新され多くの参拝者を呼び発展の礎となった。なお、近世期には象頭山から神職は除かれ、金光院が当宮の管理運営を完全に掌握し、社領地の司法や行政も管掌していた[18]。
祭神
大物主命
崇徳天皇
由緒
歴史
江戸時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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