金井清一
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その他の同名の人物については「金井清一 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

 金井 清一 Seiichi KANAI
基本情報
名前金井 清一
生年月日 (1940-07-24) 1940年7月24日
没年月日 (2022-11-30) 2022年11月30日(82歳没)
身長170 cm (5 ft 7 in)
体重70 kg (154 lb)
国籍 日本
出身地新潟県東頚城郡牧村(現上越市)
経歴
成績
優勝回数レギュラー:15回
シニア:19回
海外:1回
初優勝日本プロ
1972年
賞金王シニアツアー賞金王
1993年-1996年
日本プロゴルフ殿堂 殿堂表彰者
選出年2018年
選出部門プレーヤー
2018年12月12日現在
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金井 清一(かない せいいち、1940年7月24日 - 2022年11月30日[1])は、新潟県東頸城郡牧村(現上越市[2]出身のプロゴルファー。元ダイワ精工所属。技術ルーツは我孫子流で、我孫子一門の選手とは因縁や付き合いが深く、青木功鷹巣南雄新井規矩雄海老原清治らとは旧知の間柄である。
来歴
プロ入り前

実家は農家であったが、米の飯が全然食えなかった。米を隠していても兵隊が来て全部持っていかれたため、幼少期はサツマイモばかり食べていた[3]。豪雪地帯に生まれたため、冬は子供ながら、2階の窓から出て屋根の雪落としも手伝った[3]

そんな環境下でスクスクとやんちゃに育ち、同学年の中では何でも1番になりたかったが、走っても、相撲を取っても3番目であった。勉強は本人曰く「対象外」であったが、喧嘩が1番強かった。腕っ節の強い子供が転校してくると、同級生を並ばせておいて、目の前で馬乗りになった[3]。運動神経はそれなりによかったが、小・中学生時代は取り立ててスポーツに熱中することはなかった。仲間内で野球をやると、「よし、俺がピッチャーだ」とマウンドに上がるが、相手チームから飛んでくる野次にカッカして冷静さを失ってしまい、そのうちに「おまえら、うるせぇんだ」と喧嘩になった。

当時は地域的にもスポーツの選択は限られていたが、この頃から団体スポーツは性に合わなかった[3]。そんな中でただ一つ、電源を使わずに、電波のエネルギーだけで聞くことができる鉱石ラジオの組み立てに熱中。新潟の地にいながら、どこからともなく流れてくる日本全国のニュースや音楽、娯楽など、当時は決められた時間帯のみの聴取であったが、金井はそれを聞くために何時間も前から心待ちにしていた。

そのうち自分専用のラジオが欲しくなり、友人から近所の電気店で、聞こえるか聞こえないか分からぬラジオが3台、1000円で売っているとの情報を耳にする。金井が小学4年時の1950年は新入社員の初任給が約3000円の時代であり、とても子供が手にできる金額ではなかったが、実家で縄を編む仕事に精を出し、小豆も売って小遣いを貯めた。そうしてようやくラジオを手にしたが、3台ともスイッチを入れても、ひっくり返しても聞こえなかった。電気店に「なぜ何も聞こえないのか」と尋ねると、「そんなの知ったことじゃない、3台をうまく組み合わせれば聞こえるはずだ」と言われた。そういうことかと納得したものの、今のようにマニュアルなどなければ、周りに知識を持っている大人もいなかったため、独学で組み立てるしかなかった。何ヶ月も試行錯誤を繰り返してようやく無事、その自ら作り上げたラジオから声が聞こえるようになった時は、この上ない喜びと達成感に包まれた[3]

金井は「自分が最も熱中できるのはラジオの組み立てだ」と悟り、東京にいる知り合いのツテで、中学卒業後の1955年に定時制高校を中退し[4]、現在も秋葉原に拠点を持つ広瀬無線電機に入社[3]。15歳の春に1人上京して神田の寮に入り、夜間の電機学校にも入学[4]。東京での生活や一人暮らしに何の不安もなく、「これからは自分の好きなラジオを組み立てて生きていける」と希望に胸を膨らませていた。しかし、現実はそんなに甘いものではなく、広瀬無線の技術研究所で仕事をさせてもらえると思っていた金井が配属されたのは関連会社が入る、当時、電波ビルと呼ばれた広瀬無線の貸しビルの管理部門であった[3]

管理部といっても仕事内容は、掃除やエレベーターボーイで、金井は不貞腐れ気味になった。その仕事の中で唯一、楽しみを見つけた。同ビルの屋上に、鳥かご的なゴルフの打ちっ放し練習場があった。当時、ゴルフは限られた上級階層の者のみが興じられるスポーツであったが、広瀬無線の創業者の広瀬太吉がゴルフ好きで、電波ビルに入る関連会社の社長・役員及び秋葉原の電気店の社長ら向けに設けられたものであった。金井の仕事には練習場の片付けや球拾いなども含まれており、そこで「面白そうだ」と思い、誰もいない時に貸しクラブを手にして振り回してみた。最初は3球続けて空振りで、その後もまともにきちんとヒットできなかった。金井の闘争心に火が点くと、それからは仕事の合間、会社の人間に見つからぬ頃合いを見計らってボールを打ち込んだ。時間的にも余裕があったので、数多く練習できた。

元来の研究熱心さにも拍車がかかり、いつしかそこで練習する誰よりもボールをうまくさばけるようになり、2?3年後にはラジオの組み立ての情熱も消え失せた。すっかりゴルフの魅力に取りつかれ、広瀬社長に直接「すみません、会社を辞めます。プロゴルファーを目指します」と宣言し、金井は1958年に18歳で退社[3]

プロゴルファーになるといっても、コースに出たこともなければ、自分のクラブを持っているわけでもなかったが、電波ビルの練習場でインストラクターをしていた我孫子ゴルフ倶楽部出身の小池六郎が援助[3]。広瀬無線を辞めて住む所の無くなった金井は、必要最低限度のものだけ持って、豊島区池袋にあった小池の4畳半のアパートに居候。持参品は自分で組み立てたテレビで、まだテレビが普及していない時代だけにとても喜んでもらえた[3]。少年時代の特技に助けられたのに加えて、小池の兄がキャディマスターとして勤めていた足立区荒川河川敷の東京都民ゴルフ場で練習できる機会にも恵まれた[3]。といっても、朝早く、まだ誰もコースに姿を見せていない間に回るものであった。日が昇らぬうちに、小池から譲り受けた古いクラブを担ぎ、自転車を漕こいでコースへと通った[3]

金井にはどこかのコースで研修生となったキャリアがないが、小池のコネクションで我孫子でも練習させてもらった。我孫子でさまざまな技の修得にも励んだが、基本的には都民ゴルフ場での練習がプロへの扉を開いた[3]。都民ゴルフ場は河川敷コースであったため、行きはフォローの風でも帰りは必ずアゲンストになり、風に負けない、低い弾道のボールを打たざるを得なかった。それでショットの幅を広げられて、随分とスコアメークできるようになった金井はパンチショットを覚えた[3]。さらに、パブリックコースだけに、グリーン周りには荒れた薄芝や泥水を含んだライも多く、さまざま寄せ技を駆使せねばならないため、逆にアプローチにも自信が持てるようになった[3]

プロになるまでの収入源は、先生気取りの自称インストラクターで、町の練習場で日銭を稼いだ。金井曰く「そんなにうまいこと見本ショットを見せつけられたわけじゃないけど、しゃべりでごまかしていた」[3]。当時の一般サラリーマン並みに稼いでいたが、それでも研修会への出場費を含めて金がかかるため、歩いて電車・バス代を浮かしても、パン一つ買うにも躊躇した。思わず人目を忍んで、手を出してしまいそうな自分と必死に闘うなど、この頃が一番金が無くて苦労した[3]
プロ入り後

25歳になった1965年、3度目の挑戦で念願のプロテストに合格。2日間2ラウンド計140ストローク台で合格のところ、金井は144で合格した[3]。150人ほど挑戦して合格者は約10人で、246番目のプロ協会入会となった。トーナメントプロを目指して最初は関東オープンに出場し、尾崎将司とも初めて一緒になった。尾崎が3位で、金井は4位であり、5位までに与えられるアジアサーキット出場権を獲得。フィリピンシンガポールマレーシアインドタイ香港台湾韓国日本の9ヶ国を回る過酷なツアーで、旅費など経費だけで100万円ほどかかるが、当時の勤務先であった上板橋ゴルフ練習場の客が旅費をカンパしてくれたため出場できた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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