金井克子
[Wikipedia|▼Menu]

金井 克子
生誕 (1945-06-17)
1945年6月17日(78歳)
出身地 中華民国 天津市
ジャンル歌謡曲
職業歌手ダンサー女優モデル
担当楽器
活動期間1959年 -
事務所しまだプロダクション

金井 克子(かない かつこ、本名は足立 克子、1945年6月17日[1] - )は、日本歌手女優・元バレエダンサー。しまだプロダクション所属。身長166cm(1975年7月)[2]。B89cm、W58cm、H91cm(1974年1月)[3]
略歴

7人家族で[4]、父親が東洋紡で働いていた関係で[5]中華民国に渡り、本人は天津生まれ[1]。終戦後一家で引き揚げ、大阪府岸和田市で育つ[1]四天王寺高校卒業。

1953年西野バレエ団に参加。1959年、モデルとして芸能界入り。1962年8月、「ハップスバーグ・セレナーデ/涙の白鳥」でレコードデビュー[5]。高校卒業後の1964年NHK歌のグランド・ショー』にレギュラー出演が決まったのを機に上京[5]。同番組では由美かおるらと共に西野バレエ団五人娘と評され、人気を博して4年間出演した[4]。以降、バレエで鍛え上げられた抜群のプロポーションと端正なルックスで注目を集めた[5]

1965年には「ノーチェ デ・東京」が初ヒットを記録。またNHKへの貢献度も評価され、翌年の第17回NHK紅白歌合戦に「ラバーズ・コンチェルト」で初出場を果たす。紅白史上初めて“出場歌手のパンツが見えた”として騒がれた。西野バレエ団の後輩である原田糸子と由美かおるもバックを固めて参加した。

1966年、「歌のグランド・ショー」の出演に対して、第3回ギャラクシー賞 テレビ・個人部門を受賞[6]

1967年第18回NHK紅白歌合戦にも「ラ・バンバ」で連続出場。この頃、西野バレエ団内の原田や由美たちとダンスグループ「レ・ガールズ」を結成[5]1968年、歌手としての出場は叶わなかったものの、第19回NHK紅白歌合戦では応援合戦で由美かおる、奈美悦子らとともにレ・ガールズとして、また1969年第20回NHK紅白歌合戦でもソロで、それぞれダンスを披露する[5]など、4年連続してNHK紅白歌合戦に出場した。

1973年、「他人の関係」の印象的な振付けやクールな表情で歌う姿が話題を呼び[3][5]、デビュー以来10年目にしてオリコン・シングルチャートでTOP10にランクインする大ヒット[3]、公称ではあるが100万枚以上の売上げ[7]を記録。その年の第15回日本レコード大賞企画賞を受賞し、第24回NHK紅白歌合戦にも出場した。また、同曲の振り付けにより“フィンガーアクションの先駆者”とも言われるようになった[5][注釈 1]

1979年頃、西野バレエ団を退団[8]1981年に歯科医の男性と結婚[8]

デビュー以来40枚以上のシングルを発売してきたが、1982年8月の「愛さまざま」を最後に、新曲の発売はない。ちなみにオリコン・シングルチャートには、これまでに計6曲がチャート・イン(100位圏内)を果たしている。

2014年に『他人の関係』をカバーした一青窈と、同年の音楽特番『FNSうたの夏まつり』(フジテレビ系)でコラボレーションし、息の合った振り付けが話題となった[9]

2019年第61回日本レコード大賞において功労賞を受賞[5]

バレエを始めてから70年以上に渡り踊り続け、現在(2023年)も歌手業を含めてコンスタントにライブ公演を開催している[8]
人物
芸能界入り

5人きょうだいの末っ子で姉2人と兄2人がおり[5]、終戦後一家は岸和田の社宅で暮らした[4]。バレエ好きな姉たちの影響で、8歳の頃に西野バレエ団に入ることを自ら希望して入団し[注釈 2]、プロのバレリーナを目指して練習に励むようになった[4]。14歳の頃、当時の皇太子[注釈 3]御成婚記念のテレビによるバレエ特別番組『バレエ劇場』の主役に抜擢[5][4]

高校生の頃、上記番組を見ていたテレビ業界人から『夢であいましょう』(NHK)内の歌と歌のつなぎに踊る役目で出演を依頼された[5]。最初は踊り手として出演したがほどなくして曲紹介をするようになり、ある日スタッフから言われて歌を歌うようになった[4][注釈 4]。これがきっかけで、その後ダンサーながらレコードデビューすることが決まった[5]
歌手デビュー後

高校生の頃に歌手デビューすると、本人の意志とは関係なくコンスタントにレコードを発売することになり、新曲を出すたびに地方キャンペーンを行った[5]。この間ドラマ出演も依頼され、学校とバレエと仕事に追われる多忙な日々を過ごした[4]

デビューから約10年間は、本業の踊りに費やす時間がなくなって歌もヒットしないという状態が続き、一時は心のバランスを崩して円形脱毛症になったという[5]。自分の仕事や生活を見直すため単身渡米し、知り合いが所属するニューヨークのバレエカンパニーでしばらくの間レッスンを受ける日々を過ごした[4]。帰国後、「次の曲を最後にしよう」と決意して臨んだのが『他人の関係』だったが、大ヒットしてようやく人気歌手の仲間入りを果たした[4]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:55 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef