釐公 姫?頑
鄭
公(周制による爵位は伯)
王朝鄭
在位期間紀元前571年 - 紀元前566年
都城新鄭
姓・諱姫?頑(ツ)
諡号釐公
生年不詳
没年紀元前566年
父成公
釐公(きこう、紀元前?年 - 紀元前566年)は、春秋時代の鄭の君主。『春秋左氏伝』では僖公と表記。姓は姫、名は?頑(こんがん)、またはツ(うん)。 鄭の成公の子として生まれる。 成公4年(前581年)3月、成公が不在のため、公子班は新たに庶兄の繻(しゅ)を立てて鄭君とした。4月、鄭の人は繻を殺して?頑を立てたため、公子班は許へ亡命した。5月、晋は鄭が新君を立てたと聞いて鄭を攻撃し、鄭の子罕(公子喜)の賄賂和平と子然の盟を受けてようやく成公を帰国させた。6月、成公は自分の不在中に新君を立てた者を討ち、叔申(公孫申)とその弟である叔禽を殺した。 成公14年(前571年)6月、成公が薨去したため、子罕(公子喜)が国政を代行し、子駟(公子?)が行政を担当し、子国(公子発)が司馬となった。成公の死に乗じて晋のィ殖
生涯
釐公元年(前570年)6月、釐公は単・晋・宋・衛・魯・?・?・斉と会合し、鶏沢(晋の地)において同盟した。
釐公3年(前568年)夏、釐公は子国を魯に遣わした。秋、釐公は晋・宋・陳・衛・魯・曹・?・?・滕・薛・斉・呉・?
と戚(衛の地)で会合した。釐公5年(前566年)12月、宰相の子駟は釐公に朝見した際、釐公が答礼しなかったため、それに怒って釐公を毒殺させた。子駟は釐公の死を表向きに病死とし、その子の嘉を立てて鄭君(簡公)とした。
参考資料
『春秋左氏伝』(襄公二年、三年、五年、七年)
『史記』(鄭世家第十二)