量子力学の歴史
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量子力学に貢献した10人。 : 順に マックスプランクアルバートアインシュタイン
ニールス・ボーアルイ・ド・ブロイマックス・ボルンポール・ディラック
ヴェルナー・ハイゼンベルクヴォルフガング・パウリ
エルヴィン・シュレーディンガーリチャード・P・ファインマン

量子力学の歴史(りょうしりきがくのれきし)は現代物理学の歴史の根幹をなす。量子力学の歴史は、量子化学の歴史と絡み合って、いくつかの異なる科学的発見に端を発している。それらの例として、1838年の マイケル・ファラデーによる陰極線の発見、1859?60年のグスタフ・キルヒホフによる黒体放射問題の提起、物理系のエネルギー準位が離散的であるとするルートヴィッヒ・ボルツマンによる1877年の仮説の提案、1887年のハインリヒ・ヘルツによる光電効果の発見、そしてマックス・プランクによる1900年の量子仮説が挙げられるだろう。プランクの量子仮説とは、エネルギーを放射する原子系は、いくつかの離散的な「エネルギー量子」 ε に分割できるものとし、これらの各エネルギー量子は、それぞれ周波数 ν に比例した次の式で定義されるように、個別にエネルギーを放射するとする説である。 ε = h ν {\displaystyle \varepsilon =h\nu \,}

ここで導入された定数 h はプランク定数として知られている。

その後、 アルベルト・アインシュタインは1905年、ハインリッヒ・ヘルツによって1887年に報告された光電効果を説明するために、マックス・プランクの量子仮説と矛盾しないような形で光が粒子からなるとする説明を与えた。 この粒子は、1926年にギルバート・ルイスによって「光子」と呼ばれるようになる。光電効果とは、金属などの特定の物質に特定の波長の光を当てると、物質表面から電子が放出される現象であるが、その物質の表面の仕事関数よりも大きなエネルギーを持つ光子が当たった場合にのみ、電子が放出される。

「量子力学」(ドイツ語:Quantenmechanik)という単語は、1920年代初頭のゲッティンゲン大学で、マックス・ボルンヴェルナー・ハイゼンベルクヴォルフガング・パウリらの物理学者のグループによって作られたもので、ボルンの1924年の論文 Zur Quantenmechanik[1]" が初出である。その後数年間、この理論的基礎は化学構造反応性および化学結合に徐々に適用され始めた。
概観1898年に描かれたI2分子のルートヴィヒ・ボルツマンによる図 。原子の「感度領域」を重なりで示している。

ルートヴィッヒ・ボルツマンは1877年、 分子などの物理系のエネルギー準位が(連続的ではなく)離散的な可能性を示唆した。彼は、数学者グスタフ・フォン・エシェリッヒとエミル・ミュラーとともに、 オーストリア数学会の創設者である。ヨウ素ガスなどに離散エネルギー準位がみられるとするボルツマンの理論的解釈は、彼の統計熱力学および統計力学の理論に起源があり、その20年後にマックス・プランクが提唱する最初の量子論と同様に、 数学的な議論によって裏付けされた。

1900年、ドイツの物理学者マックス・プランクは、観測される黒体放射の周波数依存性の公式を導出するためにエネルギーが量子化されるという考えを導入して、プランクの法則を提起した。プランクの法則はボルツマン分布を古典的極限で含んでいる。プランクの法則[2]は次のように表される。 I ( ν , T ) = 2 h ν 3 c 2 1 e h ν k T − 1 , {\displaystyle I(\nu ,T)={\frac {2h\nu ^{3}}{c^{2}}}{\frac {1}{e^{\frac {h\nu }{kT}}-1}},}

ただし: I(ν,T )は温度Tの黒体から、単位周波数・単位立体角あたりの放射面の法線方向に、単位面積あたりに放射される、単位時間あたりのエネルギー(または仕事率)である。ここでh :プランク定数c :真空中の光速度k :ボルツマン定数ν :電磁放射の周波数T :黒体表面の絶対温度(ケルビン)

これに先立つウィーンの放射法則は、プランクの法則に、 h ν ≫ k T {\displaystyle h\nu \gg kT} を仮定することで得られる。

加えて、プランクの量子論の電子への適用は、1911年から13年にかけてステファン・プロコピウ 、その後 ニールス・ボーアが続いて1913年に電子の磁気モーメント(のちにボーア磁子と呼ばれる)の計算で行われた。これに続いて、電子のそれよりも3 小さい、陽子中性子の両方の磁気モーメントについても、同様の計算を異なる数値を用いることで、計算可能になりました。

光電効果
金属の仕事関数よりも大きいエネルギーを持つ光量子(光子)によって引き起こされる金属板からの電子の放出。
ハインリヒ・ヘルツが1887年に報告した光電効果
1905年にアルベルト・アインシュタインによって説明された
低エネルギー: 光電効果
中エネルギー: コンプトン散乱
高エネルギー: 対生成

1905年、 アルベルト・アインシュタインは、 またはより一般的にすべての電磁放射について、空間内に局在した点である有限数の「エネルギー量子」に分割できると仮定して、光電効果を説明した。 アインシュタインは、1905年3月の量子論文の冒頭のセクション「光の放出と変換に関するヒューリスティックな視点について」で、以下のように述べている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}"According to the assumption to be contemplated here, when a light ray is spreading from a point, the energy is not distributed continuously over ever-increasing spaces, but consists of a finite number of 'energy quanta' that are localized in points in space, move without dividing, and can be absorbed or generated only as a whole."

この主張は、20世紀の物理学者によって書かれた最も革新的な文と呼ばれ[3] ている。ここでの「エネルギー量子 (energy quanta)」は後に「光子」と呼ばれるようになる。「光子」という単語は1926年にギルバート・ルイスによって導入された。 この、「各光子が離散的にエネルギーを持ってなければならない」という考えは驚くべき成果であった。それまでの「光が波である」とする立場で黒体放射を説明する場合におこる黒体放射によるエネルギーの放射が無限に発散する(紫外破綻)の問題を解決した。1913年、ボーアは水素原子のスペクトル線を、彼の7月の論文 On the Constitution of Atoms and Moleculesにてこの量子化を用いて説明した。

こうした理論はよく現象を説明したが現象論的なものであった。この間、アンリ・ポアンカレの1912年の論文 Sur la theorie des quanta でプランクの理論について議論されたものを除き、量子化の正当化はなかった[4] [5] 。こうした現象論は総称して前期量子論と総称されている。

「量子物理学」という言葉は、ジョンストンによって1931年に書かれたプランクの宇宙の現代物理学 (英題: Planck's Universe in Light of Modern Physics)で最初に使用された。 温度が下がると、 黒体放射曲線のピークはより長い波長にシフトし、強度も弱まる。


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