野間 宏
(のま ひろし)
『画報現代史 第3集』(国際文化情報社、1954年)
誕生1915年2月23日
日本・兵庫県神戸市長田区
死没 (1991-01-02) 1991年1月2日(75歳没)
日本・東京都港区西新橋
墓地東大谷墓地(京都市)
職業小説家・評論家・詩人
言語日本語
国籍 日本
教育学士(文学)
最終学歴京都帝国大学文学部仏文科
活動期間1946年 - 1991年
ジャンル小説・評論・詩
文学活動第一次戦後派
代表作『暗い絵』(1946年)
『崩解感覚』(1948年)
『真空地帯』(1952年)
『わが塔はそこに立つ』(1962年)
『青年の環』(1949年 - 1971年)
『狭山裁判』(1976年、ノンフィクション)
主な受賞歴毎日出版文化賞(1952年)
谷崎潤一郎賞(1971年)
ロータス賞(1973年)
朝日賞(1989年)
デビュー作『暗い絵』(1946年)
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野間 宏(のま ひろし、1915年(大正4年)2月23日 - 1991年(平成3年)1月2日)は、日本の小説家・評論家・詩人。
大学時代の左翼運動と出征経験から、戦後『暗い絵』を書いて第一次戦後派の先頭に立ち、特に『真空地帯』は大きな反響を呼んで戦後文学の記念碑的名作となった。その後は社会全体の構造をとらえる全体小説
を志向し、次々と大作を発表。文学の国際交流にも尽力し、また最晩年まで社会的な発言を多く行った。部落外の出身者だが部落解放同盟中央委員となった[1]伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2013年3月)
『アサヒグラフ』1948年5月12日号
僧侶(在家の新しい流派を建てたので、既存の寺院に属してはいなかった)を父として、兵庫県神戸市長田区に生まれる。大阪府立北野中学校に進学する。
1932年、旧制第三高等学校在学中、同人誌「三人」を富士正晴(野間は富士の妹と結婚したので義兄)、竹之内静雄と創刊。
1935年、京都帝国大学文学部仏文科に進学し、反戦学生運動に参加。
1938年、京都帝国大学文学部仏文科卒業。
1938年から大阪市役所に勤務し、被差別部落関係の仕事を担当した。
1941年に応召し、中国やフィリピンを転戦するも、マラリアに感染したため帰国。
1943年、社会主義運動の前歴を憲兵に追及され、思想犯として大阪陸軍刑務所