野間大坊
本堂
所在地愛知県知多郡美浜町野間東畠ケ50番地
位置北緯34度46分15.16秒
東経136度51分10.63秒
野間大坊(のま だいぼう)は、愛知県知多郡美浜町にある真言宗豊山派の寺院。本尊は阿弥陀如来。山号は鶴林山。詳しくは鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)と称し、宗教法人としての公称は「大御堂寺」である。寺がある美浜町野間は源義朝の最期の地であり、境内には義朝の墓がある。 『大御堂寺縁起』には、天武天皇の時代に役小角が建立、聖武天皇の時代に行基により中興されたと伝えられる。その後空海が知多半島を訪れた際に一千座の護摩を炊き庶民の幸福を祈ったといわれる。 寺に伝わる室町時代の天文3年(1534年)の再興勧進帳に記載された縁起によると、承暦年間(1077年?1081年)に白河天皇の勅願寺となり、このとき「大御堂寺」と称せられたという。以上の伝承には確証はなく、創建の正確な時期等は未詳である。 『吾妻鏡』文治2年閏7月22日(1186年9月7日)条には、義朝の墓に関する次のような記述がある。平康頼(『平家物語』の「鹿ケ谷の陰謀」の登場人物として著名)は尾張守として任地にあった時、野間庄
目次
1 歴史
1.1 源義朝の最期
2 伽藍
3 文化財
3.1 重要文化財
3.2 愛知県指定文化財
3.3 その他
4 札所
5 所在地
6 交通アクセス
7 脚注
8 外部リンク
歴史
現在、頼朝が造営させたという大門や、鎌倉幕府5代将軍・藤原頼嗣の寄進による梵鐘などが現存している。梵鐘には建長2年(1250年)の銘があり、国の重要文化財に指定されている。
平成23年(2011年)12月2日に、富山大学の調査により所蔵の来迎阿弥陀像が鎌倉時代の快慶によって作られた可能性があると発表された[1]。 平治元年(1159年)、平治の乱に敗れて東海道を下ってきた義朝は、随行していた鎌田政清の舅・長田忠致の許に身を寄せるが、忠致・景致父子は平家からの恩賞目当てに湯殿(野間駅の東にある法山寺
源義朝の最期
野間大坊にある義朝の廟には、この故事に因んで幅約3センチ、長さ役約40センチの木刀が山のように供えられている。また境内には義朝の首を洗ったとされる「血の池」があり、国に異変があると、池の水が赤く染まると言う伝説がある。 境内東寄りに大門、その正面に本堂があり、境内西寄りに客殿(本殿とも)がある。知多四国八十八箇所霊場の札所としては、本堂が「大御堂寺」(50番札所)、客殿(本殿)が「野間大坊」(51番札所)とされている。 境内には義朝の墓のほか、義朝の家臣・政清夫妻の供養塔、寺を整備した平康頼の供養塔があり、豊臣秀吉に敗れて当寺で自害した織田信孝の墓もある。
伽藍
本堂 - 入母屋造、瓦葺き。宝暦4年(1754年)建立。本尊は阿弥陀三尊。
客殿(愛知県指定文化財) - 入母屋造銅板葺き。平面は方丈形式。江戸時代初期の建立。延命地蔵と称される地蔵菩薩像を安置する。
大門 - 頼朝創建の伝承をもつ。
鐘楼堂
悠紀殿 - 昭和天皇即位後、初めて行われた新嘗祭のために京都御所内に建てられたもの。昭和4年に移築。本尊は源頼朝ゆかりの大日如来。
文化財
重要文化財
梵鐘[2] - 建長2年(1250年)、鎌倉幕府5代将軍・藤原頼嗣が寄進。
絹本着色義朝最期図・頼朝先考供養図[3] - 江戸時代。「義朝公最期」の絵解きに使われた絵で、狩野探幽または周辺の画家の作。
愛知県指定文化財
客殿[4]
木造阿弥陀如来坐像[5]
覚禅鈔[6]
錫杖[7]
算額[8] - 明和8年(1771年)榎本章清、奉納(有形民俗文化財)。
史跡大御堂寺[9](史跡)
その他
地蔵菩薩像 - 頼朝の守本尊と伝える。
札所