野間地域
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野間基幹集落センター付近(野中)から南側(須川)を臨む

野間地域(のま ちいき)は、京都府京丹後市弥栄町山間部を示す広域地名[1]

21世紀初頭現在、10の集落で構成される「弥栄町野間連合区」[2]と、京丹後森林公園スイス村のある住山等の離村集落があった一帯にあたる[3]

1889年(明治22年)に施行した野間村から、1954年(昭和29年)に成谷集落が分離した後の旧村にあたる地域で[4]、2024年(令和6年)現在の大字では弥栄町野中と弥栄町須川の全域が含まれる。通称は「野間(のま)」。
地名の由来

「野間」という地名の由来は諸説ある。野間から見て東北方面の丹後町宇川に古くから開けて隆盛を誇った上山寺の山号を「吉野山」といい、宇川から峰山方面へ至る山系を吉野山山系と称して、その山系一帯の谷に20?30の集落が点在していたので、これらを「吉野に通じる谷間」=「野間」と呼んだという[5][6][7]。上山寺は781年(天応元年)建立と伝わる丹後地方でも特に古い由緒を持つ古寺であり[8]、野間は特に源氏平氏にゆかりの人々の末裔が多いと伝わることからも、中世にはすでに人が暮らしていた土地であったと考えられている[9]。往古の交通は山の尾根伝いであり、宇川から峰山へ抜けるルートでは野間地域の霰・大谷集落のある鎌ヶ谷を通ってソブ谷峠を越え、金剛童子山の行者山道と交わって修験坂を越え、弥栄町南端の等楽寺や外村を抜けて峰山に至った[5][10]

また、ノマはヌマ(沼)が訛ったもので、中心的な集落のある野中地域が古代には沼地であり、これを干拓して新田を造成したのではないかとみる説もある[6]。さらに、山言葉では雪崩の方言が「ノマ」ということがあり、地形と地名との関係性が指摘される[6]

地元においては、戦国時代丹後守一色氏の統治時代に野間一帯には4つの城(吉野城、野中城、野尻城、味土野城)が築かれてそれらすべての名前に「野」の字が付いていたことから、それらの間にある谷を特に「野間谷」と呼んだことに起因するという説もある[5]
地理
概略弥栄町野間の位置

丹後半島の中央部の山岳地帯にあり、東に与謝郡伊根町、北西に京丹後市丹後町、南西で弥栄町黒部や弥栄町溝谷の外村谷と接し、東南で京丹後市大宮町五十河宮津市世屋地域と接する[11]。東端は東経135度13分6秒、西端は東経135度7分30秒、南端北緯は35度37分42秒、北端北緯は35度42分54秒と記録される[11]

気温は温暖だが[11]寒暖差が大きく[12]、春から梅雨時の気温は低め[13]。冬期の積雪量は平年で約1メートル[11]、山間部では2メートルを超えることもままある[14]

集落は、宇川の上流から源流域の一帯にあたる「野間谷」と総称される山間地の谷間の各地に点在する[6]

代表的な銘山に東の太鼓山(683メートル)、西の小金山(416メートル)、南の金剛童子山(613メートル)があり、こららの他にも、金時山、高尾山、内松山などの高峰が山脈を成しているため、野間地域は隣接する他地域とは隔絶されている[11]

これらの山々から流れる大谷川、須川、来見谷川、吉野川などが合流して野間地域においては「野間川」となり、谷間を丼鉢状の袋地を成すように蛇行しながら北流する[15]。野間川は、中津・田中・川久保の集落を貫き、丹後町域に入ると宇川と呼ばれ、日本海に注ぐ[10][11]。古来アユの名産地として知られる[11]

野間川の両岸は深い渓谷であり、平地は野中地区や須川地区のあたりにわずかに広がる[15]
山岳かつて風力発電所も建設された太鼓山

(カッコ内は位置する大字 - 集落)
太鼓山山系
太鼓山 - 683.1メートル(須川 - 住山)[16]金時山 - 616.4メートル(須川 - 霞)[16]露梨山 ? 562メートル(須川 - 須川 ・ 須川 - 吉野の境)[16]牧山 - 468.8メートル(須川 - 吉野 ・ 野中 - 中津の境)[16]大宮山 - 280メートル(野中 - 野中)[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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