野田英樹
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俳優演出家の「野田秀樹」とは別人です。

野田 英樹

基本情報
国籍 日本
出身地大阪府
生年月日 (1969-03-07) 1969年3月7日(55歳)
F1での経歴
活動時期1994
所属チームラルース
出走回数3
タイトル0
優勝回数0
表彰台(3位以内)回数0
通算獲得ポイント0
ポールポジション0
ファステストラップ0
初勝利?
最終勝利?
最終戦1994年オーストラリアGP
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野田 英樹(のだ ひでき、1969年3月7日 - )は、日本レーシングドライバーで元フォーミュラ1ドライバー。大阪府出身。身長170cm。NODAレーシングアカデミー高等学院校長、NPO法人青少年少女モータースポーツ振興会代表理事。
経歴

1982年にカートレースでデビュー。1987年よりフォーミュラカーでのレースを始め、1988年より中嶋悟率いる中嶋企画に加入し全日本F3に参戦。1989年には中嶋企画の支援を受け渡英し、イギリスのジュニア・フォーミュラであるフォーミュラ・ヴォクソール・ロータス・ヨーロッパ選手権に参戦する。

1990年と1991年にはアラン・ドッキング・レーシング(英語版)よりイギリスF3選手権に参戦し、日本人2番目のイギリスF3勝者となった。1992年(3001インターナショナル)から1993年(トムスGB)・1994年(フォルティ・コルセ)まで国際F3000に参戦し、同選手権での日本人として初めての表彰台(1994年第4戦エンナ・ペルグーサでの3位)を獲得する。

1994年には、ラルースよりヨーロッパGP以降の3レースにスポット参戦しF1デビューを果たす。しかし、参戦したレースでは何れも後方グリッドからリタイアと結果を残せなかった。

1995年は一度はシムテックと全戦契約を結んだが、阪神淡路大震災の被害を受けたスポンサーが撤退したため、序盤戦はドメニコ・スキャッタレーラにシートを譲り、第6戦カナダGPから参戦する契約を結ぶこととなった。スポンサー・フィーは払い込んだものの、そのシムテックが資金難のために第5戦モナコGPを最後に撤退(事実上のチーム消滅)するという事態に陥る。パシフィックGP日本GPには古巣フォルティコルセからスポット参戦が決まっていたが、スーパーライセンスが発給されず直前になって断念。野田はこの年F1に出走することはかなわなかった。

1996年からはアメリカに活動の場は移して、ステップダウンを覚悟してインディ・ライツに参戦。1997年にはシリーズ第8戦で優勝するも、トップカテゴリーであるインディカー・シリーズに昇格する夢は叶わなかった。

1998年より日本に戻り、フォーミュラ・ニッポン全日本GT選手権(現:SUPER GT)に参戦する。なお、1999年のGT選手権には当初舘信吾とコンビを組んで参戦するはずであったが、開幕前のTIサーキット英田でのテストで舘が事故死し急遽代役となったワイン・ガードナーとともに参戦している。

2003年には自らのチーム「Team MOHN」を立ち上げ、フォーミュラ・ニッポンに2005年まで参戦した。また、2005年には福田良とコンビを組み、この年からスタートした2005-2006A1グランプリに日本チームとして第2戦ドイツのみに参戦した(スプリントレース10位、フィーチャーレース9位・チーム総合順位21位)。

2006年は新たに始まった全日本スポーツカー耐久選手権一ツ山レーシングからLMP1クラスよりザイテックをドライブし参戦している。

2007年は前年に引き続き参加した全日本スポーツカー耐久選手権にて、一ツ山レーシングからLMP1クラスよりザイテックをドライブし参戦し、優勝を飾る。

2010年のル・マン24時間レースを最後に現役を引退、今後は後進の指導などに務めることを表明したが、2012年一ツ山レーシングからSUPER GTに参戦するため、一時的に現役復帰した。

現在は2013年4月に開校した「NODAレーシングアカデミー高等学院」の校長を務める。同校は星槎国際高等学校との提携により「モータースポーツを学びながら高校卒業資格が得られる」ことを売りとしており、野田自身も講師として指導に当たっている。同校は当初、栃木県茂木町ツインリンクもてぎ)を本拠としていたが、2015年4月に岡山県美作市に移転し、以後は岡山国際サーキットを拠点としている[1]

2014年、SARD RACING PROJECTのGMに就任。

2015年、スーパーGT 500クラスに参戦するLEXUS TEAM SARDの監督に就任。サード(企業)と組みFIA-F4のスカラシップも創設。
エピソード
所属チームについて

中嶋企画は1991年にイギリスF3を終えた野田を、1992年は帰国させて全日本F3000の自チームに起用する方針を持っていたが、早期のF1進出を目指す野田はヨーロッパでのレース活動を希望。野田は中嶋企画を離れ、自力での国際F3000ステップアップを果たした。

2003年に自らのチーム「Team MOHN」を立ち上げ、オーナードライバーとしてフォーミュラ・ニッポンに参戦したが、本人曰く、「マネージャーとドライバーの二足のわらじを履くのは本当に大変なことだった」と語り、2006年からは純粋にドライバー業に専念することとなった。
THE ALFEEとの関係

スポンサーだったティノラス社長の野崎が、THE ALFEEの所属事務所"PROJECT III"社長の関口と、かつて同じアパレル会社で上司と部下の関係で親友でもあるという事で、国際F3000参戦中に関口に紹介され、それ以来THE ALFEEとの交友関係が始まる。1995年リリースされたアルバム『夢幻の果てに』収録されている"WILD BAHN!"は、野田のために書き下ろされた応援歌である(曲中のエグゾーストノートも実際に野田のF3000マシンの音)。1994年にMM21臨港パークで開催された野外コンサート"KING'S NIGHT DREAM"では、コンサート開演前のイベントの一環でサイン会が行われ、1997年に稲毛海浜公園で開催された夏の野外イベント"Emotional Field"では、スクリーンにインディライツ・ポートランド戦で優勝を飾った映像を流しながら"WILD BAHN!"を演奏、ステージに登場した野田がメンバーに花束を渡す演出があった。その他、F1にスポット参戦した際などに、マシンやヘルメット・レーシングスーツなどにTHE ALFEEのロゴが貼られることがあった。
家族

娘のJuju(野田樹潤)もレーシングドライバーの道に進み、2017年4月には11歳ながら岡山国際サーキットで行われたフォーミュラU17戦で優勝[2]。同年6月にはミキハウスなどが中心となり後援会も発足した[3]
レース戦績
フォーミュラ
全日本F3選手権

年チームエンジン12345678910順位ポイント
1988年JAXレーシングチーム with トムストヨタSUZ
RetTSU
3FSW
RetSUZ
9SUG
DNSTSU
17SEN
9SUZ
DSQNIS
8SUZ10位4

(key)
イギリス・フォーミュラ3選手権

年チームエンジンクラス1234567891011121314151617順位ポイント
1990年アラン・ドッキング・レーシング無限ADON
7SIL
6THR
RetBRH
DNSSIL
6BRH
9THR
11SIL
16DON
RetSIL
RetSNE
RetOUL
6SIL
5BRH
11DON
4THR
10SIL
Ret12位8
1991年ASIL
2THR
4DON
RetBRH
10BRH
5THR
4SIL
4DON
7SIL
4SIL
5SNE
12SIL
1BRH
7DON
7SIL
5THR
47位36

(key)
マカオグランプリF3

年チームシャーシー/エンジン予選レース1レース2総合順位
1988年 JAXレーシングレイナード・883 トヨタ・3S-G18位NC (24位)DNSNC
1991年 アラン・ドッキング・レーシングラルト・RT35 無限・MF2049位9位21位18位

国際F3000選手権

年チームシャシーエンジン12345678910順位ポイント
1992年3001インターナショナルレイナード・92D無限SIL
RetPAU
DNQCAT
RetPER
RetHOC
DNSNUR
14SPA
17ALB
12NOG
RetMAG
8NC0
1993年TOM'Sレイナード・93DコスワースDON
RetSIL
11PAU
9PERHOC
RetNUR
19SPA


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