のだ よしはる
野田 義治
生誕 (1946-03-28) 1946年3月28日(78歳)
日本・富山県富山市
出身校広島県立呉工業高等学校
職業芸能プロモーター
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野田 義治(のだ よしはる、1946年〈昭和21年〉3月28日 - )は、日本の芸能プロモーターで、芸能事務所サンズエンタテインメントの会長。トラフィックジャパン
の代表取締役社長を兼任する。日本の実業家でもある。元イエローキャブの代表取締役社長。元渡辺プロダクション社員。1946年、富山県富山市に生まれる[1]。幼少の頃は海上自衛官である父の仕事の都合で京都府舞鶴市などに住み、11歳からは広島県呉市で育った[1]。広島県立呉工業高等学校卒業[1]。学生時代は主にスポーツと喧嘩に明け暮れる日々を送り、広島市内まで仲間と喧嘩に繰り出したという。
高橋英樹に憧れて俳優を志望し[2]、広島から上京して俳優座の研究生となる。東京新宿区下落合の劇団の稽古場に通いながら、埼玉県の鋳物工場、新聞の配送、ジャズ喫茶、ゴーゴークラブの支配人などをする。この店でグループ・サウンズのブッキングやマネジメントをやり始めたのが芸能界と関わるきっかけ[3]。なお、俳優の道を断念したのは、劇団サイドから声が篭(こも)るとの批判があったからだという。
1965年にダイワ企画
入社。渡辺プロ時代にいしだあゆみのマネージャーを務めた。いしだは、芸能界では付き人泣かせの芸能人として有名であった。野田自身もなんども辞めようと思ったが、「この世界の礼儀、気配りから態度まで、それこそ1から10までを教わった」と言い、今ではいしだを心から尊敬している[4]。また、朝丘雪路や夏木マリのマネージャーも務めた[5]。朝丘については「お姫様だったが、仕事になるとプロだった」と回想している[6]。1980年頃、黒澤プロモーション入社。遊び仲間3人で個人事務所イエローキャブを設立。1988年、有限会社イエローキャブに法人化し、代表取締役に就任。1993年、有限会社サンズを設立し、代表取締役に就任。1996年、有限会社イエローキャブを株式会社に改組。2002年6月、トラフィックジャパンを設立し代表取締役に就任。
2004年1月、株式会社イエローキャブの株式3分の2を保有する株式会社スタッフ東京(東洋コンツェルングループ)の出席なしに、株式会社イエローキャブの臨時株主総会を開き、野田本人や所属タレントの雛形あきこ、山田まりやなどに計400株の新株の発行を決定。しかし、スタッフ東京側は、新株発行は無効であるとして東京地方裁判所に新株発行無効確認訴訟を提訴。同年10月4日、発行した株式に対して「手続きに重大な欠陥がある株主総会は無効」として発行を認めない判決が下された。このため、同年12月に、株式会社イエローキャブの代表取締役社長を辞任し、有限会社サンズでマネジメント事業を行うようになる。これに伴い、一部の所属タレントが有限会社サンズに移籍した。 『空手バカ一代』をもじり、巨乳バカ一代を自称する。古くは堀江しのぶに始まり、かとうれいこ、細川ふみえ、雛形あきこ、山田まりや、小池栄子、佐藤江梨子、MEGUMIらといった数々の人気巨乳タレント(グラビアアイドル)を売り出し、1990年前後から起きた「巨乳ブーム」のきっかけを作った[7]。 「巨乳路線」は、1980年代後半に起きた出版業界の男性誌や情報誌の創刊ラッシュのとき、「少年マガジン」の編集者とたまたま意気投合して、堀江しのぶのグラビアを数10ページ組ませてもらい、これが評判を呼んだことがはじまりだという。当時はまだ、マンガ雑誌の表紙に水着姿の女の子を使うという発想はない時代であった[7]。 『QuickJapan』のVol.68グラビアアイドル特集の対談記事では、「今は何が受けるかわからない。
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