野田昌宏
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

実業家の「野田順弘」とは別人です。

野田 昌宏(のだ まさひろ、1933年8月18日 - 2008年6月6日)は、日本小説家SF作家翻訳家、宇宙開発評論家、テレビディレクタープロデューサー経営者。元日本テレワーク株式会社代表取締役社長(後に相談役)。株式会社ガイナックスの元監査役

1960年代には主に本名の野田宏一郎(のだ こういちろう)名義を用い、1970年代以降は野田昌宏名義を用いた。また、作詞家としては「山本圭一」の変名も使用した[1]
経歴

1933年8月18日、野田健三郎とツヤ子の長男として福岡県で生まれる。1946年福岡第一師範学校男子部附属国民学校(現在の福岡教育大学附属福岡小学校)を卒業[2]泰星中学校・高等学校入学。1952年、高校を卒業するが大学受験に失敗。浪人生活をおくる[3]1954年、地元の古本屋でたまたま、アメリカのSF雑誌「アスタウンデイング・サイエンス・フィクション」1948年12月号(表紙なし)を購入。エド・カーティアの挿絵の素晴らしさに感激する[3][4]

1955年学習院大学政経学部政治学科入学。神保町の古本屋に通い、米軍が放出したSFのペーパーバックを買いあさる。ただし、この頃はそのカバー絵を見て感激しているだけであり、中身はさほど読んでいなかった[3]。また男声合唱団のテナーであり、混声合唱団のマネージャーでもあった。

1958年、前年に柴野拓美が創設していたSF同好会「宇宙塵」に参加。会合で星新一が語った、レイ・ブラッドベリの短編「万華鏡」(『刺青の男』ほか収録)のあらすじに衝撃を受け、以降、手元のSFコレクションを読み始める[3]。また、粋人であった会員の今日泊亜蘭に私淑。作品の登場人物のモデルにしたり、今日泊の影響で、野田は福岡出身であるにもかかわらず江戸弁を普段から使ったり作品中の会話に登場させるようになる。

1958年11月、大学卒業前に、前年創設されたばかりのフジテレビに入社。入社前に仏文学者の叔父(那須辰造)から「福島正実がSF雑誌を創刊するため、スタッフをさがしている」と勧誘されるが、すでにフジテレビに内定が決まっていたため、断念[4]1959年、学習院大学卒業。同年12月に『SFマガジン』が創刊される。

1961年、神保町の海外SF本が大量に買われていることに気がつき、「さてはライバル出現か?」と考え、「お目にかかりたし、電話乞う。当方SF狂の一サラリーマン」と、古本屋の店主に伝言を預ける。現れたのは、当時大学1年生だった伊藤典夫で、以降、深い親交を結ぶ[3]1962年矢野徹宅で、伊藤典夫・森優とともにコレクションのパルプ・マガジンをわけてもらう。それを切っ掛けに、アメリカからパルプ・マガジンを取り寄せ、コレクションをし始める[5]

1963年、研究エッセイ「SF銀河帝国盛衰史」で『SFマガジン』にデビュー(2月増刊号)。同誌9月号から、アメリカのスペース・オペラを紹介する「SF英雄群像」を連載開始して、人気を博す。アメリカでも前例のない研究であり、手元のコレクションだけを元にした手探りの仕事であった。1965年、初の翻訳本、ジュニア向けとして、エドモンド・ハミルトン百万年後の世界』講談社を刊行(野田宏一郎名義。)。また、「日本SFファングループ連合会議」の発足とともに、初代議長に就任。

1966年、野田昌宏名義の初の翻訳本として、ハヤカワSFシリーズから、キャプテン・フューチャーシリーズから2冊、『太陽系七つの秘宝』『謎の宇宙船強奪団』を刊行。読者から大きな人気を得る。またその奇想天外な楽しさが星新一小林信彦らに評価される。

1968年、『SFマガジン』9月臨時増刊号において、初の小説作品にして、代表作でもある『レモン月夜の宇宙船』を発表。また、日本SF大会TOKON4実行委員長をつとめる。1970年、『SFマガジン』編集長だった森優ハヤカワ文庫SFの創刊に関わり、第一回配本ラインナップの1番目としてハミルトン『さすらいのスターウルフ』を翻訳刊行[6]。年内にマレイ・ラインスター『青い世界の怪物』とハミルトン『透明惑星危機一髪!』を刊行し、「娯楽SF路線」の成功に大きく貢献。以降も同文庫に大量のスペース・オペラ作品を翻訳する。

1973年4月、フジテレビで「ひらけ!ポンキッキ」が放送開始。10月、映画上映・プロ作家の講演・SFクイズなどを行う「日本SFショー」を企画・実行、翌年の「第二回日本SFショー」も主宰。

1976年、フジテレビを退社して、日本テレワークの設立に参加。日本SF大会TOKON6実行委員長。また、翻訳したA・バートラム・チャンドラー作「ぬれた洞窟壁画の謎」が第7回星雲賞海外短編部門賞を受賞。1980年から1982年にかけて、西崎義展とともに「戦艦大和探索プロジェクト」をサポートする[7]

1984年、日本テレワークの社長に就任。

1986年、「レモンパイお屋敷横町ゼロ番地」で第17回星雲賞日本短編部門賞を受賞。

1989年、『スペース・オペラの書き方』で第20回星雲賞ノンフィクション部門賞を受賞。

1994年、『やさしい宇宙開発入門』で第25回星雲賞ノンフィクション部門賞を受賞。

1995年、『愛しのワンダーランド』で第26回星雲賞ノンフィクション部門賞を受賞。

1995年、『「科學小説」神髄』で第16回日本SF大賞特別賞を受賞。

1998年アレン・スティール作「キャプテン・フューチャーの死」の翻訳で第29回星雲賞海外短編部門賞を受賞。

1999年、自ら出演し、SFの歴史を語った『NHK人間大学 宇宙を空想してきた人々』で第19回日本SF大賞特別賞を受賞。また、第30回星雲賞ノンフィクション部門賞を受賞。

2003年、日本テレワーク社長を退任。2007年、「宇宙軍」の井上博明(アニメーション・プロデューサー)が実行委員長として開催された第65回世界SF大会/第46回日本SF大会 Nippon2007の「顧問」をつとめた。ただし、健康上の理由で参加はできなかった。2008年6月6日、肺炎のため74歳にて死亡。6月30日、単行本未刊行だったキャプテン・フューチャー物のオリジナル小説『風前の灯!冥王星ドーム都市』が創元SF文庫から刊行された。

2008年8月24日、第39回星雲賞の特別賞を本名・野田宏一郎で受賞。

2008年9月23日、「宇宙軍」主催で「野田昌宏さんを偲ぶ会」が開催される。また、当該の会は、翌年以降も「星涯(ほしのはて)の会」と名前をかえて、毎年行われると発表された(2010年が最後の開催となっている)。

2008年12月2日、第29回日本SF大賞・特別賞を進呈される。

2009年6月から、鷹見一幸による『銀河乞食軍団』シリーズの前日譚『銀河乞食軍団 黎明篇』全3巻が刊行開始。『銀河乞食軍団』合本版の刊行も開始された。

2009年10月、膨大な蔵書を受け入れた「早川記念文学振興財団」が「ハヤカワライブラリー 野田昌宏文庫」として管理・公開することを発表。

活動

野田昌宏の功績は主に本業であるテレビ番組制作とSF関連の活動に分かれる。
テレビ番組制作


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:74 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef