野球界の永久欠番
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野球界の永久欠番(やきゅうかいのえいきゅうけつばん)では、原則としてほとんどプロ野球の元名選手等の関係者に対して永く称えるために適用される今の選手には与させないその欠番について述べる。
概要

野球界における永久欠番の歴史は1939年MLBアメリカン・リーグニューヨーク・ヤンキースルー・ゲーリッグが使用していた4を欠番としたことに始まる。当時ゲーリッグは、不治の病とされのちに「ルー・ゲーリッグ病」とも呼ばれる筋萎縮性側索硬化症で引退を余儀なくされたが、戻ってくるまで他の誰にも使わせずに開けておくとする事でチームに居続けることができるとして歓喜した[注 1]

当初はあくまでもヤンキースという一つの球団によるゲーリッグ個人に対してだけの措置であったが[注 2]ナショナル・リーグニューヨーク・ジャイアンツ1944年カール・ハッベルの11を永久欠番に指定し、ナショナルリーグ初の永久欠番となった事で、徐々に広がり各チームが永久欠番を導入していった。ドジャース、レッドソックス、アスレチックスなど多くのチームは、選手のアメリカ野球殿堂入り・チームが定める在籍年数など永久欠番とするための条件を有している。また、選手以外にもファン、オーナー、球場アナウンサーが永久欠番を与えられて顕彰されたり、永久欠番と同様の顕彰を受けているケースもある。

1997年4月15日に20世紀以降での初の黒人選手としてメジャーリーグでプレー[注 3]し、その後の黒人選手がMLBでのプレーできる道を切り開いたジャッキー・ロビンソンを顕彰し、MLBはマイナーリーグを含めたMLB傘下すべてのチームで42をロビンソンの番号として永久欠番に指定した。ただし、この制度制定時に42を使っていた選手・コーチは引退するまで、チームを移籍した時も含めて、継続して42を使用することを認められた。その1人がモー・ボーンで、彼は背番号はキャリアを通じて42を着用し、また同番号をつけた最後のアフリカ系アメリカ人選手でもあった[注 4]。制定当時は選手・コーチを含めて該当者が約20人程いたが、MLBで最後に42をつけた選手はヤンキースのマリアノ・リベラで、2013年シーズンを最後に現役を引退したことにより欠番の例外となる人物はいなくなった[注 5]。アメリカ国外のプロ野球球団で、アフリカラテン系の外国人選手が42を着けることが多いのはこのためである。故に、当該番号が忌み数の「死に」につながる日本のプロ野球界ではそれが顕著に現れている。42が共通の欠番である理由に「42 ?世界を変えた男?」では「全員が同じ番号なら特定の選手だけバカにされない」という人種差別への抗議と思われる台詞がある。

その他マイナー・リーグにおいても永久欠番が独自で制定されている[注 6]

日本のプロ野球においてもかなり早い段階で導入している。読売ジャイアンツでプレーしていた黒沢俊夫が1947年6月23日に腸チフスにより33歳の若さで急死。それを受けて1947年7月9日に沢村栄治の「14」とともに「4」が日本のプロ野球界として史上初の永久欠番に指定された。なお、この時点でMLBで永久欠番に指定されていたのは上述のゲーリッグの「4」とハッベルの「11」のみである[2]
メジャーリーグベースボール(MLB)の永久欠番詳細は「メジャーリーグベースボールの永久欠番」を参照
日本プロ野球(NPB)の永久欠番

野球殿堂表彰者

チーム番号対象の選手名ポジション指定期日備考
読売ジャイアンツ1王貞治 内野手000000001989-03-16-00001989年3月16日1980年の現役引退後、助監督・監督時代(1981年 - 1988年)にも使用している。
3長嶋茂雄 内野手000000001974-11-21-00001974年11月21日第2期監督時代の2000年 - 2001年にも使用している[注 7]
4黒沢俊夫 外野手000000001947-07-09-00001947年7月9日日本野球界初の永久欠番の一つ。1947年のシーズン途中に現役のまま腸チフスで急死。
14沢村栄治 投手000000001947-07-09-00001947年7月9日日本野球界初の永久欠番の一つ。引退する1943年まで使用していたが、翌年に戦死した[注 8]
16川上哲治 内野手000000001965-01-18-00001965年1月18日1958年の現役引退後、コーチ・監督時代(1959年 - 1964年)も使用している[注 9]
34金田正一 投手000000001970-04-02-00001970年4月2日
阪神タイガース10藤村富美男 内野手000000001958-11-30-00001958年11月30日球団創設メンバーとして10を着用し、その後引退とともに永久欠番とされた。そのため、阪神で背番号10を着用した経験を持つ選手は藤村のみであり、「一人の選手だけが着用した永久欠番」はNPB唯一である[注 10]
11村山実 投手000000001972-11-02-00001972年11月2日第2期監督時代の1988年 - 1989年にも使用している[注 11]
23吉田義男 内野手000000001987-10-13-00001987年10月13日1969年の現役引退以降、相応しい人物の入団まで欠番とされたが、結局使用した選手がいないまま、1987年の第二次監督退任に伴い正式に永久欠番とされた[注 12]
中日ドラゴンズ10服部受弘 投手000000001960-03-20-00001960年3月20日二軍監督時代の1977年にも使用している。
15西沢道夫内野手000000001959-03-15-00001959年3月15日ヘッドコーチ・監督時代の1963年 - 1966年にも使用している[注 13]
広島東洋カープ3衣笠祥雄 内野手000000001987-09-21-00001987年9月21日[注 14]
8山本浩二 外野手000000001986-10-27-00001986年10月27日第2期監督時代の2001年 - 2005年にも使用している[注 15]
15黒田博樹 投手000000002016-11-01-00002016年11月1日2008年のMLB移籍から、2015年に広島に復帰するまでの間も欠番となっていた[3]
埼玉西武ライオンズ24稲尾和久 投手000000002012-07-04-00002012年7月4日1970年の現役引退後も、1972年までは稲尾自身が監督として着けていた[注 16]
その後、40年の時を経て欠番に指定された[注 17]
北海道日本ハムファイターズ100大社義規 オーナー000000002009-02-01-00002009年2月1日2009年度の野球殿堂入りを記念し、永久欠番に制定された[注 18][注 19]
東北楽天ゴールデンイーグルス10ファンナンバー その他000000002004-12-17-00002004年12月17日スターティングメンバーの9人に続く10人目、サブメンバーの一人という意味[注 20][注 21][注 22]


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