野球狂の詩
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『野球狂の詩』(やきゅうきょうのうた)は、1972年から1977年に『週刊少年マガジン』に掲載された、水島新司野球漫画1997年に『ミスターマガジン』で『野球狂の詩 平成編』として復活、廃刊後は『コミックモーニング』に移籍、『野球狂の詩2000』、『新・野球狂の詩』として掲載された。

1977年木之内みどり主演で日活実写映画化。フジテレビ系で1977年にテレビアニメ化され、そのうちの1エピソード『北の狼南の虎』が1979年アニメ映画として公開された。また1985年斉藤由貴主演で、月曜ドラマランド枠にてテレビドラマ化された。
概要

1972年から『週刊少年マガジン』で、ほぼ月一回のペースでの不定期連載を開始。それから4年後に本格的に連載開始した。当初は、さまざまなキャラクターが主人公を務める短期連載集のスタイルを採り、プロ野球セ・リーグに所属する球団東京メッツの、50歳を超えたよれよれ投手、岩田鉄五郎以下、愛すべき「野球狂たち」を主人公とした連作である。ともすれば無視されがちな二軍選手にも光を充て、彼らの思いも描く。「ウォッス10番」「ガッツ10番」では、女性キャラクターを里中満智子が描くという形で合作を行った。

週刊連載となった1976年 - 1977年の、いわゆる水原勇気編をもっていったん完結したが、『週刊少年マガジン』に1978年、その後の東京メッツを描いた読み切り作品「勇気と甚久寿編」(『野球狂の詩外伝』のタイトルで文庫版に初めて収録)を掲載。その後は『白球の詩』『ブル』『ストッパー』『大甲子園』などの、東京メッツと岩田鉄五郎が登場する作品が描かれていく。

『野球狂の詩』のタイトルで描かれた、メッツと無関係の読み切り短編『熱球ハエどまり』を経て、1997年に『野球狂の詩 平成編』として『ミスターマガジン』にて復活。以後『野球狂の詩2000』『新・野球狂の詩』とタイトルを変え、『ミスターマガジン』廃刊後は『週刊モーニング』に移籍して連載を続ける。さらに2004年からは『別冊モーニング』へ移籍。年4回のみの掲載となるが雑誌そのものが存続しなかったこともあり、明確な最終回を迎えないまま連載が終了する。

2005年の秋には秋田書店・講談社の合同企画で『野球狂の詩VSドカベン』が『週刊モーニング』(同じく『ドカベンVS野球狂の詩』が『週刊少年チャンピオン』にて)にて9週間に渡り掲載された。岩田は80歳を越えて未だ現役投手である。両作品の世界は、『ドカベン』本編および『大甲子園』ではリンクしている部分もあったが、『ドカベン プロ野球編』では現実のプロ野球球団構成に合わせたものとなり、メッツは存在しないことになっている。複数作品を繋げることによる整合性の欠ける描写は、水島作品では『大甲子園』『ブル』『ストッパー』などでも多く見られる。

KC2巻に収録の『雨のち晴れ』『ミスジャッジ』『たそがれちゃってゴリ』の3編は、1970年 - 1972年に『少年キング』に掲載された、『野球狂の詩』とは全く無関係の読みきり短編である。愛蔵版、KCデラックス、文庫版と以後の単行本もこのままの収録内容で出版されているため、この3編も『野球狂の詩』の作品であると誤解されている場合が多い[要出典]。3編のうち『雨のち晴れ』『ミスジャッジ』の2編は「ドンガメ」と呼ばれる捕手・岩田藤男を主人公にした連作である。またアニメ版『野球狂の詩』では『ミスジャッジ』の一部のエピソードが『コンピューター審判』の中で引用されている。
登場人物
東京メッツの主な選手・球団関係者メッツの歴史や主要選手などについては東京メッツの項を参照なお本編では国立や小仏など、登場人物名にも多摩との関連があるものがある。
他球団のライバル
力道 玄馬(りきどう げんば)
阪神のメッツキラーの投手。彼専用の不気味な応援歌(阪神の球団歌「
六甲おろし」の替え歌)や、手にした数珠(相手を供養する意味を持つ)とともに登場する。背番号11、後に50(ストッパーに登場した時は、99番)。肩を痛め一度は引退を決意。引退試合のつもりで完投した1975年後半のメッツ戦(ノーガード殴り合いのような打撃戦)で9回裏・満塁の場面でリリーフの岩田鉄五郎と対決(代打を送られるところを吉田監督の温情でそのまま打席に立った)、逆転サヨナラ内野安打で2者生還、勝ち投手となる。それを機に打者へ転向。その迫力は新人・水原を恐怖させた。主演作は『秘打鬼ごろし』、『怪投玄馬』の二作。『ドカベン ドリームトーナメント編』において、阪神の選手として登場。その際の背番号は050、こちらは当初から内野手として登場している。『野球大将ゲンちゃん』に、ほぼ同名の小学生野球選手「力道元馬」が登場するが、無関係。
王島大介(おうしま だいすけ)
阪神の一塁手。人呼んで「南の虎」。火浦健の双子の弟で、本来の名前は「二郎」。左打。北海道で生まれたが実母の家が火事となり、その後捨てられたがたまたま現地に来ていた両親に拾われて、九州・熊本で育った。育ての父もまた自ら起こした会社を2度倒産させるなど苦労したが、大介の笑顔を支えに奮起し一流企業にのし上げた。背番号10番。入団の年には火浦と新人王を最後まで争う。優勝をかけた直接対決で2死満塁のチャンスに打席に立つも、兄弟であるという事実を知った火浦の前に三振に打ち取られる。両足に幼少の時に負った火傷の痕が残っており、これをスポーツニュースで見た実母が「彼は私の生き別れた子」と気づくことに。また王嶋自身も自らの血液型が(育ての)両親とは不一致であることを高校時代の怪我をきっかけに知ってはいたが、実の母が誰なのかは『平成版』まで知ることはなかった。ミスタータイガースと呼ばれ引退後コーチ、1999年に現役復帰。火浦健は昭和46年(1971年)の雪が舞う2月まで、北海道の白大雪高校野球部に在籍していた。火浦の噂を聴いて多くの中学生がこの高校を受験し、野球部に入ったらしいが、火浦が2年生以上だっか否か不明。高校1年だったとすると、2月は年度が変わる前なので、前年(1970年)4月に始まった第1学年の3学期に当たる。火浦が2年の服役を終えて出所し東京に向かった夏に弟の王島大介が甲子園で優勝、11月にドラフトで阪神から指名され、12月に九州から大阪に向かった時期、国分寺球場で兄の火浦がメッツにテスト入団している。しかし火浦と王島が同学年とすると高校1年は1970年度(1970年4月 - 1971年3月)、それから2年が過ぎた高校3年は1972年度(1972年4月 - 1973年3月)。兄弟がプロで初対決した一軍デビュー戦をロッテがパ・リーグ優勝した1974年のシーズンとすると、王島は阪神入団当時は「高校4年」で1年留年していたことになる。主演作は『北の狼・南の虎』。『ドカベン ドリームトーナメント編』において兄・火浦健と共に、阪神タイガースの選手として登場。その際の背番号は010。
海王神人(かいおう かみと)
大洋の外野手、右投右打、背番号0。本塁打連発の神がかり的な打撃と守備で最下位大洋の15連勝に貢献する。岩田武司が高熱を出して意識不明となった際、なぜか見舞いに訪れた海王が手を握ったら意識が回復したり、手の汗を残飯にかけておいしくするという、正体不明の神業も持つ。メッツ3連戦で大活躍して2連勝に貢献、3戦目の岩田鉄五郎も完膚なきまでに打つが、岩田も全てソロホームランに抑える。


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