野球日本代表
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「侍ジャパン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「サムライ・ジャパン」をご覧ください。

野球日本代表

侍ジャパンのロゴ
国または地域 日本
協会全日本野球協会(BFJ)
愛称侍ジャパン
監督 井端弘和トップチームU-15
川口朋保社会人代表
未定(U-23
堀井哲也大学代表
小倉全由U-18
仁志敏久U-12
中島梨紗女子代表
WBSCランキング1位 (2023年12月31日)
オリンピック
出場回数6回 (初出場は1992年)
最高成績 金メダル (2021年)
ワールド・ベースボール・クラシック (WBC)
出場回数5回 (初出場は2006年)
最高成績 優勝 (2006年、2009年2023年)
WBSCプレミア12
出場回数2回 (初出場は2015年)
最高成績 優勝 (2019年)
ワールドカップ
出場回数17回 (初出場は1972年)
最高成績 準優勝 (1982年)
インターコンチネンタルカップ
出場回数16回 (初出場は1973年)
最高成績 優勝 (1973年、1997年)
アジア競技大会野球競技
出場回数8回 (初出場は1990年)
最高成績 優勝 (1994年)
アジア野球選手権大会
出場回数30回 (初出場は1954年)
最高成績 優勝 (1955年1959年1962年1965年1967年1969年1973年1983年1985年1989年1991年1993年1995年2003年2005年2007年2009年2012年2017年2023年)
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野球日本代表(やきゅうにっぽんだいひょう、やきゅうにほんだいひょう)は、日本野球代表チーム。日本では「侍ジャパン」(さむらいジャパン)の愛称がある。2024年5月現在、トップチームの3大大会であるワールド・ベースボール・クラシック(WBC)・プレミア12オリンピックの全てで優勝経験がある唯一のチームであり尚且つディフェンディングチャンピオンであり、WBSC世界ランキングでも1位を維持している。
チーム名称

本チームの名称は「野球日本代表」だが、2000年のシドニー五輪までは「全日本」と名乗っていた。それ以降はオフィシャルサイト等の公式な発表では、過去に遡って全て「野球日本代表」との表記で統一されている。名称の変更理由、変更事実は説明されていない。近年の「野球日本代表」と過去の「全日本」は同一のものである。

第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)での日本代表の愛称は「SAMURAI JAPAN(サムライ・ジャパン)」であった。しかし2008年3月にホッケー日本代表が発表し商標登録していた愛称の「さむらいJAPAN」に酷似しており、日本ホッケー協会の永井東一広報委員長は「WBC日本代表より前に“さむらい”を名乗っていた。元祖は私たちなのでパクったのではない」「露出の差を考えれば、こちらがマネしたと思われる」と主張し、日本野球機構(NPB)など関係団体に抗議文を提出した。これに対しNPB側は「商標類似」などルール上の問題はないとし、「SAMURAI JAPAN(サムライ・ジャパン)」の取り下げをしなかったことで、日本ホッケー協会理事からは「オレたちの方が早かったのだから金を取れ」という意見も出た[1][2]。これについて、当時NPBの加藤良三コミッショナーは「双方の代表が親しまれ、さらに活躍できるように協力、応援をお願いしたい」と配慮するコメントを残したが、WBCで日本代表の活躍を見た永井は「“侍ジャパン”の名前がこうして表に出ていることに関しては、複雑な思いもありますね」とも語った[3]

2012年の代表常設化後はチームの呼称として、「侍ジャパン」が正式に使われることとなった。「侍ジャパン」という愛称は、トップチームを含む全世代の事を指しているので、社会人代表や大学代表が出場する場合も「侍ジャパン」と称している。そのため、「トップチーム=侍ジャパン」ではない。

また2024年より、野球日本代表と同様に全日本野球協会が設立にかかわるベースボール5日本代表が、「侍ジャパンBaseball5代表」として活動している[4][5]
歴史
背景

日本の野球界は、プロ野球アマチュア野球社会人野球学生野球等)がそれぞれ複雑に絡み合って発展してきた。またそれぞれの団体が独立して運営されてきており、柳川事件でのプロとアマの対立に代表されるように時に団体毎での対立が問題となってきた歴史がある。

国際試合においてはWBSCが主に統括しているが、かつては金属バットの使用を認めており、またプロそのものの参加が認められていなかったため、野球日本代表はアマチュア選手(学生野球・社会人野球)のナショナルチームであり、代表選手選出においてもアマチュア協会側が主導で決定してきた[注釈 1]。ところが、国際オリンピック委員会(IOC)によるオリンピックへのプロ派遣要望等を受けて1998年に国際大会へのプロ参加容認等が転機となり、野球日本代表の在り方を巡ってはそれぞれの団体の思惑等も絡み、大会毎に対応が異なってきた歴史がある。

現在においても各協会の代表事業の統括組織として、「野球日本代表マネジメント委員会(JMBC)」があるもののサッカーにおける日本サッカー協会のような日本野球界全体を統括する組織ではない。WBSC主催のWBSCプレミア12については全日本野球協会が、MLB機構主催であるワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の選手派遣については日本野球機構(NPB)が主導的に対応している等、対応が異なっているのが現状である。
創成期

1954年アジア野球選手権開催にあたり、アマチュア球界で代表チーム編成のため日本学生野球協会と日本社会人野球協会(現日本野球連盟=JABA)が共同で、「日本アマチュア野球協会」を結成する。ここから代表チームが編成された。これが野球日本代表の最初と言える[注釈 2]。「日本アマチュア野球協会」からアジア野球選手権に6回代表チームを送りこむ(社会人3回、学生2回、混合1回)。しかし「日本アマチュア野球協会」を、日本バレーボール協会日本サッカー協会のようなアマチュア野球の統括組織にしようとする動きに日本学生野球協会が反発、1966年に学生協会が脱退しアマチュア協会は空中分解し解散した。

学生側と社会人側の対立で日本アマチュア野球協会は解散したが、国際試合に代表を送りこむための組織は必要だった。そのため、よりゆるやかなアマチュア球界組織として両協会の付属機関として1967年に「日本アマチュア野球国際委員会」を設立する。この委員会のもと1972年世界選手権で初出場、1973年インターコンチネンタルカップに出場し優勝、1980年世界選手権日本開催、1987年アジア野球選手権日本開催、公開競技として1984年ロサンゼルスオリンピック1988年ソウルオリンピックの両五輪に代表チームを送りこみ、それぞれ金メダル銀メダルを獲得した。
オリンピック正式競技へ

1992年バルセロナオリンピックから正式競技となることに伴い、野球代表組織が改めて問題となった。「日本アマチュア野球国際委員会」は存在したものの、野球の代表組織として日本体育協会(体協)、国際野球連盟(IBAF)に加盟していたのは日本社会人野球協会であったため[注釈 3]1992年バルセロナオリンピックから野球が正式競技になることにより、IBAFにアマチュア球界で統合して加盟する必要が出てきた。このため、「日本アマチュア野球国際委員会」を発展的解消し、日本学生野球協会と日本野球連盟(旧日本社会人野球協会)の上部組織でない「屋上屋」の組織として1990年「全日本アマチュア野球連盟」(BFJ)を結成し、この組織がIBAF、BFA、日本オリンピック委員会(JOC)に加盟する。


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