野溝勝
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野溝勝(1951年)

野溝 勝(のみぞ まさる、1898年明治31年)11月15日 - 1978年昭和53年)8月22日)は、日本政治家農民運動家衆議院議員参議院議員左派社会党書記長、芦田内閣地方財政委員会委員長正三位勲一等瑞宝章
生涯

長野県上伊那郡赤穂村(現在の駒ヶ根市)に馬車屋の子として生まれる。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、1917年(大正6年)青森農業学校畜産獣医科を卒業する。同年法政大学に入学するが、すぐに中退し、獣医師となり、長野県警察部で防疫官、衛生助手として勤務する。しかし思想的に問題があるとみなされて、長野県下伊那郡富草警察署(現・阿南警察署)に配置換えとなる。しかし、ここでも署長と衝突し、1922年(大正11年)に退職した。

同年上京し、全国農民組合宣伝部に入る。さらに杉山元治郎らと日本農民組合結成に参加し、中央委員長に選出される。1923年(大正12年)地元に戻り、伊那町(現在の伊那市)に家畜市場を設立する傍ら、農民運動、無産運動を展開する。日農の闘志として各地の小作争議に参加した他、1926年(大正15年)伊那電鉄争議では、待遇改善を要求しストライキを指導する。会社側がピケ破りに雇った暴力団日本刀を引っさげて渡り合い、「ケンカの勝」の異名を取る。

1927年(昭和2年)社会民衆党南信支部副支部長に選ばれ、翌1928年(昭和3年)長野県会議員選挙が普通選挙で行われ、野溝は上伊那郡から立候補するが、1427票で最下位、落選する。この頃、長野県内の無産政党は野溝が所属する右派の社会民衆党(安部磯雄委員長)、中間派日本労農党麻生久委員長)、左派の労働者農民党(労農党、大山郁夫委員長)に分かれていたが、野溝は日本労農党の林虎雄、労農党の羽生三七に統一戦線を呼びかけ、三党統一実現同盟を結成する。この過程で社会民衆党本部からは、左傾化したとして党を除名されるが、1931年(昭和6年)社会民衆党を除く無産政党が合同し、全国労農大衆党が結成され、野溝は入党する。さらに翌1932年(昭和7年)社会民衆党と全国労農大衆党が合同し、社会大衆党が結成され、野溝の宿願であった統一無産政党が出現した。この間、1930年(昭和5年)長野県会議員補欠選挙に立候補。約3800票を獲得するが落選した。しかし、1931年(昭和6年)の県会議員選挙に三度立候補し4695票を獲得し、当選した。長野県初の無産政党が獲得した議員である。長野県会では、唯一の無産政党議員ということで当局から危険視され、1935年(昭和10年)の県議会選挙では、県警、特高などから集中攻撃を浴び、選挙運動中、運動員の食堂で昼食に取ったカレーライスを供応とされて検挙され、2300票で落選する。

1937年(昭和12年)第20回衆議院議員総選挙に社会大衆党公認で旧長野3区から立候補し当選する。この選挙では社会大衆党は躍進をとげ、前回の18から37名に一挙に議席を増やした。なお、開院式の日に礼装がないので欠席を決めていたが、都新聞(現在の東京新聞)記者の唐島基智三(のち、政治評論家)のアドバイスで古着屋から礼装を借り、靴だけは泥靴を履いて登院したというエピソードがある。衆議院議員を通算3期務めるが、戦争が激化するなかで1942年(昭和17年)第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)には立候補を断念した。

終戦後、野溝は日本社会党結成と日本農民組合の設立に奔走する。1945年(昭和20年)10月に杉山元治郎、須永好三宅正一らとともに農民組合連合世話人会を結成し、戦前からの農民運動家を糾合し、単一農民組合結成全国懇談会を発足する。1946年(昭和21年)2月日本農民組合結成大会が開かれ、会長に須永好が選出され、野溝は主事(書記長にあたる)に選ばれる。1947年(昭和22年)日農内の社会、共産両党の路線対立が激化したため、副委員長であった野溝らは「日農主流体制確立に関する件」を提案し、日農は分裂する。野溝は日本農民組合主体制派の委員長に選出された。日農分裂の経過から、社会党右派から離脱し、左派の鈴木茂三郎加藤勘十らと行動を共にするようになる。

1947年(昭和22年)第23回衆議院議員総選挙で社会党が第一党となり、社会党、民主党国民協同党の三党連立による片山内閣が成立する。野溝は第一回国会で衆議院農林委員長に選出される。同年11月平野力三農相が罷免(後に公職追放)されると、社会党左派は野溝を後任として推薦するが、連立与党の民主党、国協党(国協党の支持基盤は農村では旧地主や富裕な農業者であった)の反対が強く実現しなかった。片山哲首相は、野溝農相をあきらめ、経済学者で社会党参議院議員の波多野鼎を後任とするが、これが左派の反発を招き、左派の国会議員78名は党内野党を宣言し五月会を結成した。

その後、芦田内閣では左派ながら国務大臣地方財政委員会委員長、新聞及出版用紙割当委員会委員長)として入閣し、同時に入閣した加藤勘十とともに現実左派と呼ばれた。しかし芦田内閣は昭和電工事件で瓦解、野溝も1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙で落選した。


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