野村沙知代
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のむら さちよ
野村 沙知代
別名義伊東 芳枝(出生名)
生年月日 (1932-03-26)
1932年3月26日
没年月日 (2017-12-08) 2017年12月8日(85歳没)
出生地 日本福島県西白河郡西郷村
死没地 日本東京都目黒区
血液型B型
職業タレント
配偶者アルヴィン・エンゲル (1957年 - 1976年
野村克也1978年 - 2017年
著名な家族ダン野村(長男)
ケニー野村(次男)
野村克則(三男)
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野村 沙知代(のむら さちよ、1932年昭和7年〉3月26日 - 2017年平成29年〉12月8日)は、日本タレント。所属事務所は株式会社エフエンタープライズ(東京都千駄ヶ谷[1]

プロ野球選手プロ野球監督である野村克也の妻として知られる。愛称は「サッチー」で、『森田一義アワー 笑っていいとも!』で共演した中居正広から名付けられたという。

出生名、伊東 芳枝(いとう よしえ)。沙知代に改名したのは1976年だが、本記事では便宜上、改名前の事項についても「沙知代」と表記する。
経歴
生い立ち

1932年3月26日土曜日)に福島県西白河郡西郷村で伊東巳之吉・さく夫妻の長女として生まれる。父は都営バス運転手で、一家は東京都荒川区南千住に住んでおり、本人も南千住で幼少期を過ごした[2]1944年に第二瑞光国民学校初等科(現:荒川区立第二瑞光小学校)を修了したが、1945年2月25日の空襲で自宅が焼失したため、一家は東京を離れて西郷村の隣の白河町(現:白河市)に移り住み、終戦後も白河で生活した[3]

白河第一国民学校高等科を卒業後、日本電信電話公社電話交換手として就職。しかし、この仕事をしていた時にミスコンに出場し、「ミス白河」に抜擢され優勝した事をきっかけに、地元新聞に写真入りで紹介されているという。これを機に電話交換手の職を退職し、東京へと舞い戻り、しばらくは実家と音信不通の日々を送るようになる。

その後しばらくしてから、家族に手紙を送って妹や弟を第一ホテルに呼び寄せ、米兵からもらったケーキコーラを手渡して「お父ちゃんたちも大変だろうから、ちゃんと一生懸命勉強しなきゃだめだよ」と言って学費の援助をしたという[4]。東京での住まいや生活の子細などは家族に明かさなかったというが、弟の伊東信義によれば、沙知代の服装や化粧、持ち物、更にその収入を見ればパンパンをしていることは明らかであり、米兵に肩を抱かれてホテルの周りを闊歩する姉に遭遇することもあったという。

1957年4月、米軍将校として来日していた東欧ユダヤ系アメリカ人のアルヴィン・エンゲルと結婚し、同年5月に長男・ダン(克晃)、1959年2月に次男・ケニー(克彦)が生まれた。
野村克也との出会い

1970年8月、南海ホークスの選手兼任監督であった野村克也は、18日から20日に後楽園球場で開催される対東映フライヤーズ戦のために上京。宿泊先の原宿のホテルに程近い行きつけの高級中華料理店を訪れた際に、沙知代と相席になり一緒に食事を取りながら談笑した。これが二人の出会いであるという[5]。それからしばらくして沙知代は克也と愛人関係になり、1972年頃には克也は本妻と別居状態になった。この時点では克也の婚姻関係のみならず、沙知代自身の婚姻関係も解消されていなかったことから、両者はダブル不倫の状態であった。

克也はこの当時の状況について、本妻はお嬢様育ちで家事をまともにやらず、そのうえ浪費癖も酷く、さらには本妻の方が既に他の男と不倫関係にあったので、沙知代と知り合う以前の1968年の時点で本妻に対して離婚を要求し別居していたと主張しており、また沙知代との関係についても、沙知代を囲い始めた頃に南海球団オーナーの川勝傳に報告し、「プライバシーやから何もいわん」との返答を得て関係を承認されていたと主張しているが[6][7][8]、これに対して克也の長男・陽一(本妻との間の子)は、父の克也が突然自宅に帰ってこなくなったのは1973年頃であり、母(本妻)は大人しく家庭的な人で料理等の家事もきちんとこなしていたと証言しており[9]、沙知代の実弟・信義も陽一の証言内容を全面的に認めている[10]

克也が自宅へ戻らなくなった頃、克也のチームメイトであり親友でもあった広瀬叔功が忠告したが、克也は広瀬の忠告を聞き入れず、逆にこれ以降広瀬を疎んじるようになった。広瀬は自著で沙知代について「球場へ出入りするなどしたことも私は快く思っていなかった。以心伝心というものか、彼女も私が嫌いだったのだろう。用兵にまで口出したかどうかは知らないが、73年頃から私の出番は確実に減っていった」と述べている[11]
南海球団との争い

1973年7月23日には、克也との間に克則が誕生したが、克也は当初、克則を認知しなかったため、沙知代は克則を実父・伊東巳之吉の養子にしようとしたという[12](翌1974年6月に克也は克則を認知)。この頃から沙知代は、南海のチーム運営に口を出すなどの行為が目立つようになり、選手たちの不満が渦巻くようになった[13]門田博光には「野村の方針に文句を言うな。文句を言うなら試合で使わないわよ」と電話を掛けたという[14]佐藤道郎は「マミーはピッチャーには何も言わず、『マミーすみません。打たれました』と言っても、『明日、頑張んなさい』だけ。野村さんはピッチャーを一番大事にしていましたから、そこは分かっていたのでしょう。でも、バッターたちはきついことを言われてましたね。選手はもちろん、高畠導宏バッティングコーチまで『アンタ、なに教えてんのよ!』と怒られていましたから」[15]と述べている。

1975年秋、ついに我慢の限界に達した選手たちは沙知代の排除を計画し、中百舌鳥球場で行われた秋季キャンプで克也が選手に意見を求めた際に、門田博光、西岡三四郎江本孟紀の3人が「カゲの監督がいるせいで選手が気持ちよくプレーできない雰囲気になっている」という旨の発言をして現状の是正を求め[16]、11月には西岡、江本、藤原満の3人がチームを代表して大阪市内のホテルで克也に「公私混同を止めてください」と直訴した[17]

一方、球団フロント・職員の間にも沙知代に対する不快感が広がっており、長嶋茂雄監督の初年度が最下位に終わった読売ジャイアンツが投手補強のため南海にトレードを申し込んで来た際に、南海の球団幹部が「野村が巨人へ行きたがっている」という情報を流した。巨人のフロントはこの情報に興味を示し、佐伯文雄常務と張江五広報が窓口となって克也の獲得交渉を進め、選手兼任ヘッドコーチとして克也を巨人に移籍させることで条件がまとまり、克也本人も巨人への移籍を喜んで承諾していたが、結局不成立に終わった。長嶋が反対したためであるという[18][19]

留任が決まった克也は反沙知代派の粛清に乗り出し、首謀者と見なされた西岡は12月に中日ドラゴンズへ、江本は翌年1月に島野育夫らと共に阪神タイガースへと、それぞれ交換トレードで放出された。沙知代はこの時、門田も他球団へ放出させようと画策したが、川勝オーナーが克也に「門田だけは出すこと相成らん」と釘を刺したため、門田の放出は阻止された[20]

1976年5月17日にアルヴィンとの離婚が成立。


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