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をお願いします。(2020年5月)野村 政明(のむら まさあき、1854年4月20日〈嘉永7年3月23日〉 - 1902年〈明治35年〉10月2日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事。旧名、市来七之助。正式名は市来政明。 薩摩藩士の子として鹿児島郡上瀧尾町で生まれる。開成所で英書を、藩儒者から漢籍を学んだ。 1875年に上京し、芝の近藤塾(攻玉塾)、さらに明治11年に慶應義塾に入学して藤田茂吉などと共に英学などを学んだ。西郷隆盛と西南戦争に従軍して生還。野村忍助
経歴
1882年、鹿児島新聞社社長に就任。以後、鹿児島県会議員、鹿児島県地方衛生委員などを歴任。1887年1月、愛媛県書記官に任官。以後、内務省参事官、宮城県書記官、鹿児島県書記官などを歴任。
1894年9月、鳥取県知事に就任。前年の水害の復旧事業、伝染病の救護事業を推進した。1896年4月、拓殖務省南部局長に転じ、さらに台湾事務局長を務めた。1898年10月、和歌山県知事となる。以後、岐阜県知事、宮城県知事、石川県知事を歴任。
1902年5月、愛知県知事に就任したが、持病の悪化のため、同年9月に石川県粟津温泉で療養したが、同年10月、赤痢のため金沢病院で死去。
栄典
1899年(明治32年)12月20日 - 従四位[1]
1900年(明治33年)6月30日 - 勲三等瑞宝章[2]
脚注[脚注の使い方]^ 『官報』第4943号「叙任及辞令」1899年12月21日。
^ 『官報』第5098号「叙任及辞令」1900年7月2日。
参考文献
歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
内閣「野村政明愛媛県書記官ニ被任ノ件」明治19年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-018-00・任A00112100
丸山信編『人物書誌大系 30 福沢諭吉門下』日外アソシエーツ、1995年3月、ISBN 4816912843
第一次鳥取県
河田景与 権令
関義臣 参事
三吉周亮 参事→県令
伊集院兼善 参事
第二次鳥取県
山田信道 県令→知事
武井守正
西村亮吉
調所広丈
野村政明
深野一三
荒川義太郎
久保田貫一