野村 忠宏
第67回朝日杯フューチュリティS表彰式にて
(2015年12月20日)
基本情報
ラテン文字Tadahiro NOMURA
原語表記のむら ただひろ
国 日本
出生地奈良県北葛城郡広陵町
生年月日 (1974-12-10) 1974年12月10日(49歳)
身長164cm
体重62kg
選手情報
階級男子60kg級
段位七段
引退2015年
獲得メダル
日本
柔道
オリンピック
金1996 アトランタ60kg級
金2000 シドニー60kg級
金2004 アテネ60kg級
世界柔道選手権
金1997 パリ60kg級
銅2003 大阪60kg級
世界ジュニア
銀1994 カイロ60kg級
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野村 忠宏
研究分野スポーツ医学
スポーツ科学
研究機関同志社大学
弘前大学大学院
名城大学薬学部
出身校天理大学
奈良教育大学大学院
弘前大学大学院
博士課程
指導教員中路重之
補足
博士(医学)学位授与番号:甲第1856号
プロジェクト:人物伝
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野村 忠宏(のむら ただひろ、1974年12月10日 - )は、奈良県北葛城郡広陵町出身の日本の柔道家、体育学者、医学者。名城大学薬学部特任教授。株式会社Nextend(ネクステンド)代表取締役。
オリンピック柔道史上初の3連覇(アトランタ五輪、シドニー五輪、アテネ五輪)を成し遂げている[1]。得意技は背負投。 祖父は地元・奈良で道場「豊徳館野村道場」を開く柔道師範野村彦忠、父は1984年ロサンゼルスオリンピック金メダリストの細川伸二ら名選手を育てた元天理高校柔道部監督野村基次、叔父は1972年ミュンヘンオリンピック金メダリストの野村豊和、兄の野村忠寿も豊徳館野村道場のコーチ[2] という柔道一家。母は競泳選手で東京オリンピックで奈良県の聖火ランナーを務めた。 多彩な技や、抜群の切れ、スピード、天性の守りのカンが天才的と称される。相手を事前に研究しないことや、試合前後の誰も寄せつけない集中ぶりから天才肌だと言われている。男子柔道60kg以下級の選手として、アトランタオリンピックで優勝。シドニーオリンピックにて柔道軽量級で初の2連覇。アテネオリンピックにおいて柔道史上初、全競技通してはアジア人初となる3連覇を達成。さらに夏のオリンピックでの金メダルは日本人通算100個目というメモリアルになった。 アテネオリンピックでの金メダル獲得後は、近代オリンピック史上2人しかいない個人種目4連覇を視野に、北京オリンピックへの出場を目指した。しかし、2007年の全日本選抜柔道体重別選手権大会で6度目の優勝を果たした直後の練習中に右膝前十字靭帯を断裂[3]。手術を回避したまま日本国内での代表選考会へ臨んだものの、2008年4月の全日本選抜体重別選手権準決勝で浅野大輔に敗れたため、代表に選ばれなかった[注 1]。なお、この敗戦の直後には、右膝前十字靭帯の再建手術を受けている[3]。 2012年には、講道館杯の2回戦敗退によって2012年ロンドンオリンピックへの出場を逃したため、日本テレビ系列での同オリンピック中継に「アスリートコメンテーター」として出演。現役アスリートとしての視点で、柔道を初めとする競技種目の取材を経験した[4]。 2013年11月に右肩、2014年10月に左膝を相次いで手術[5] したが、2015年の全日本実業柔道個人選手権大会での復帰を視野に現役生活を続行[6]。2015年には、4月30日付で七段へ昇段した。柔道界では異例の若さ(40歳)での昇段[7][8] で、講道館によれば、「国際大会に出場するような一級の柔道選手が七段に昇級することは非常に珍しい」という[8]。 しかし、2015年8月24日に現役引退を表明。地元の関西(ベイコム総合体育館)で同月29日に開かれる前述の全日本実業柔道個人選手権大会が「引退試合」になることも発表した[9]。自身2年ぶりの実戦になった同大会では、1・2回戦でそれぞれ一本勝ちを収めたものの、3回戦で椿龍憧(ALSOK新潟所属のシード選手)に一本負け[10]。同月31日に大阪で開いた引退記者会見では、引退の理由に「(前述の手術を受けた両膝と右肩の状態の悪化による)体の限界」を挙げたうえで、今後の抱負として「自分が主役じゃなくて、若い選手たちを主役に引き上げる仕事をしていきたい。オリンピックにも、何らかの形で関われたら嬉しい」と述べた[11]。 ちなみに、天理大学卒業後の1999年から所属しているミキハウス[3] では、野村の現役引退後も本人の要望に応じて活動を支援する姿勢を示している[12]。また、隔週ペースで『ひるおび!』(TBSテレビ制作の全国ネット番組)木曜日のコメンテーターを担当。2015年11月には、現役時代にも取材・出演の経験がある『サンデースポーツ』(NHK総合テレビ)で「マンスリーキャスター」を務めた。
人物
年譜2021年8月20日、東京パラリンピックの聖火の集火式にて
1974年12月10日、奈良県北葛城郡広陵町に生まれる。
1980年、祖父創設の豊徳館野村道場にて柔道を始める。
1987年、天理中学校に入学。最初の試合で女子に負けてしまい奮起したものの、体重が30kgほどしかなかったこともあり奈良県で16位が最高。
1990年、天理高校に進学。
1992年、奈良県大会で優勝。インターハイでは予選敗退するが、全日本ジュニア体重別選手権で準優勝。
1993年、天理大学体育学部体育学科武道学コースに入学。
1996年4月、全日本選抜柔道体重別選手権で優勝。1996年アトランタオリンピックの選手に選ばれる。