野村忍介
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野村 忍介
生誕
1846年
薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村
(現:鹿児島県鹿児島市常盤
死没1892年7月12日
鹿児島県鹿児島市
所属組織 大日本帝国陸軍鹿児島県警察
薩摩軍
最終階級陸軍大尉
鹿児島県三等警部
指揮薩摩藩小銃四番隊小隊長
鹿児島警察署長
奇兵隊隊長(薩軍)
戦闘戊辰戦争
西南戦争
除隊後西南戦争に参戦、降伏した後服役
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野村 忍介(のむら おしすけ、弘化3年(1846年) - 明治25年(1892年7月12日[1])は江戸時代末期(幕末)の薩摩藩士、明治陸軍軍人警察官
経歴
薩摩藩

弘化3年(1846年)、折田清太夫の第2子として薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(のちの鹿児島市常盤町)に生まれる。名は朝雄、幼名は亀次郎という。十郎太、斎蔵、のちに忍介と改名する。本姓は加世田氏。加世田氏は弟の矢八(景国)が継ぎ、忍介は母方の実家である野村家の養子となり野村家を継いだ。

幼年の頃には大山後角右衛門大刀流剣術を学び、15歳のときに深見休八真影流を学んだが合わず、薬丸半左衛門の門弟となり薬丸流を修めた。また、砲術は青山愚痴に天山流砲術(同門に野津鎮雄)を習い、和歌を是枝生胤に学んだ。後に慶応年間には京都詰となり市中見廻りの折、衝突した他藩士2名を斬ったとされる。戊辰戦争のときは、城下四番小隊(隊長は川村純義、監軍は永山弥一郎)の分隊長として鳥羽・伏見の戦いに参戦した。次いで東山道軍が大垣、池上、内藤新宿を経て白河に進撃すると、これに続き四番小隊の小隊長として有数の激戦であった白河攻防戦で戦い、白河城陥落後は棚倉に転戦した。会津若松城に進撃する際は、川村指揮の下で十六橋の戦いに勇戦、後に会津若松城包囲戦に参戦し軍功を挙げた。
明治新政府

明治2年(1869年)に鹿児島常備隊がつくられたときには、大隊小隊長に任じられた。明治4年(1871年)、藩が御親兵を派遣した際、西郷隆盛に従って上京し、近衛陸軍大尉に任じられたが、この航海中錯乱した者に斬りつけられ、鼻に刀傷を負った。このため「ハナ」というあだ名がついた。後に伊予大洲県判事として派遣されるが、明治5年(1872年)にこの職を辞し、鹿児島へ帰郷した。
鹿児島県警察

明治8年(1875年)に県令大山綱良より鹿児島県四等警部に任命され警察署長となったものの、警察署長としては階級が低かったため三等警部に昇進する。
また、天文年間から禁止されていた浄土真宗(一向宗)の取り締まりに警察官が割かれ不足することを懸念し、大山と相談の上これを解いた。この浄土真宗の解禁によって、島津久光一派のけん制をも狙ったとされる。

明治9年(1876年)、山口県萩にて萩の乱が勃発したため、鹿児島県下の治安維持を同じく三等警部であった中島健彦に任せ、西郷の指示で上方へ赴き、情報の収集にあたった。

西南戦争

上方より戻り、中島と共に鹿児島県下において治安維持に勤めていた忍介は、谷口登太の通報を受け、帰郷していた中原尚雄ら二十数人を捕縛、事情聴取を行い調書を作成し、県令の大山や私学校へ仔細を報告した。

明治10年(1877年)2月6日に私学校本校にて行われた大評議の場においては、出兵に反対する永山弥一郎の意見を支持し、「野村忍介、壮士六百を率い、汽船に乗じて、水路若州小濱に抵り、是より更に京都に入り、闕下に伏して、奏請するに、急に西郷大将を徴し、且つ沿道の鎮台及衛戍に勅し、特に其路を啓かしむることを以てするの議ありし(野村忍介は、自らが決死隊600名を率いて汽船に乗船し、海路若狭小浜から上陸し、ここから京都に入り、帝に伏して西郷大将を招集し、かつ沿道の鎮台及び鎮台兵にも勅命で道を開けるよう願い奉るのはいかがだろうかとの意見を出した)」また、「今や幸にして鳳輦(ほうれん)西京に駐まるあり。我一大隊を以て、奸党を掃蕩し、天子を擁し、聖詔を請て、激を天下に伝ふるに於ては、天下の大事手に唾して成るべし。豈に快ならずや、縦令、我一大隊を挙げて悉く西京に戦死するに至るとも、我壹万の兵は、其機に乗じて豊前小倉に出でん乎、天下の形勢、我に帰するや疑を容れざるなり。此の機失すべからず」(幸いなことに今、京には帝がおわすため、この決死隊にて反対派を一掃し、帝を擁し、詔勅を請い願い奉り、世間に檄を飛ばせば、天下の一大事として勇気を奮い起こし事を成そうとしたも同然である。実に欣快なことではないか。たとえ、我が一大隊が京都においてことごとく戦死することになったとしても、我ら薩摩に残る幾万の兵がその機に乗じて豊前小倉に進出すれば、天下の形勢が我々の思い通りになろうことは疑うべくもない。この機会を逃す手はない)」と述べたとされる。

しかしこの策は退けられ、西郷自ら率兵し、熊本城下を堂々と通り、上京する案が議決された。2月13日の隊編成において忍介は桐野利秋を大隊長とする四番大隊の三番小隊長に任命された。

2月22日、熊本城総攻撃失敗の日の夜の再軍議において、忍介は西郷小兵衛と共に熊本城包囲に幾らかの兵を割き、残りをもって上京すべきという分進論を提案主張するがこれも退けられた。

3月に北部方面での戦闘が激化すると忍介は山鹿方面に派遣され、政府軍を幾度も破った。


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