野村吉三郎
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この項目では、戦前日米交渉に奔走した海軍出身の駐米大使について記述しています。元全日空社長の同名の人物については「野村吉三郎 (経営者)」をご覧ください。

日本政治家野村 吉三郎のむら きちさぶろう
阿部内閣の外務大臣に迎えられ
記者団を前に抱負を語る野村(1939年9月26日)
生年月日1877年12月16日
出生地 日本和歌山県和歌山市
没年月日 (1964-05-08) 1964年5月8日(86歳没)
死没地 日本東京都新宿区
出身校海軍兵学校卒業
前職学習院院長
所属政党無所属→第十七控室→自由民主党
称号海軍大将
従二位
勲一等旭日桐花大綬章
功二級金鵄勲章
サイン
第54代外務大臣
内閣阿部内閣
在任期間1939年9月25日 - 1940年1月16日
参議院議員
選挙区和歌山地方区
当選回数2回
在任期間1954年6月3日 - 1964年5月8日
枢密顧問官
在任期間1944年5月18日 - 1946年6月13日
その他の職歴
第2代 自由民主党参議院議員会長
(総裁:石橋湛山岸信介
1956年 - 1957年
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軍歴

所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1898年 - 1937年
最終階級 海軍大将
指揮第三艦隊司令長官
呉鎮守府司令長官
横須賀鎮守府司令長官
戦闘上海事変
除隊後学習院院長
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野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1877年明治10年)12月16日 - 1964年昭和39年)5月8日)は、昭和初期に活躍した海軍軍人外交官政治家海兵26期次席。位階勲功等は海軍大将従二位勲一等功二級

和歌山県和歌山市出身。国際法の権威として知られ、阿部内閣外務大臣をつとめたのち、第二次近衛内閣のとき駐米大使に任じられ、真珠湾攻撃の日まで日米交渉に奔走して戦争回避を模索した。
生涯
海軍軍人時代

紀州藩士・増田喜三郎の三男として和歌山県名草郡(現:和歌山市西釘貫丁)で生まれ、野村正胤の養子となる。1895年(明治28年)、和歌山中学校(現・県立桐蔭高校)を修了。上京後、海軍諸学校への予備校であった私立海軍予備校(現在の海城中学校・高等学校)で学び、海軍兵学校26期1898年(明治31年))卒業(次席[1][2])。以後海軍軍人としての経歴を歩む。海兵教官、「千歳」航海長などを歴任した後、1901年(明治34年)に完成した戦艦三笠引取りのためにイギリスへ渡ったのをはじめ、オーストリアドイツ駐在を経て、在アメリカ日本大使館駐在武官を歴任したほか、パリ講和会議ワシントン軍縮会議の全権団に随員として加わるなど、海外経験が豊富であった。後にアメリカ大統領となるフランクリン・ルーズベルト海軍次官ら海外の政治家とも親交があった。やがて1926年大正15年)には軍令部次長となり、以後横須賀の両鎮守府司令長官などを歴任した。

1932年昭和7年)に第一次上海事変が勃発すると、第三艦隊司令長官となっていた野村は、揚子江上の軍艦による艦砲射撃などで白川義則陸軍大将率いる陸軍の上海派遣軍を側面支援した。上海事変が終結した4月29日、同地で催された天長節祝賀会の最中に上海天長節爆弾事件が起こる。紅白の幕を背に雛壇に並ぶ日本の要人に対し、韓国の独立運動家である尹奉吉が爆弾を投げつけたもの。この事件で野村は右眼を失明、特命全権公使の重光葵は右脚を失い、同席していた白川は瀕死の重傷を負って翌月に死去した。上海天長節爆弾事件後の野村

傷が癒えた野村は、同年10月から2回目の横須賀鎮守府司令長官を務め、翌1933年(昭和8年)3月に大将に親任され、同年11月に軍事参議官に転じる。翌1934年(昭和9年)に勲一等旭日大綬章を受章。

1935年(昭和10年)9月に第四艦隊事件が発生すると、同年10月1日に組織された査問委員会の委員長に就任した[3]
海軍大学校受験について

野村は海軍大学校甲種学生の履歴を持たない[2]。帝国海軍の海軍大将のうち、昭和に入ってから海軍大将に親任された者32名のうち、海大甲種学生の履歴を持たないのは野村を含め3名のみである[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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