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出典検索?: "野村克則"
野村 克則阪神タイガース 二軍バッテリーコーチ #87
楽天コーチ時代
(2019年3月13日、ヤクルト戸田球場)
基本情報
国籍 日本
出身地東京都目黒区(大阪府豊中市生まれ)
生年月日 (1973-07-23) 1973年7月23日(50歳)
身長
体重178 cm
84 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション捕手、一塁手
プロ入り1995年 ドラフト3位
初出場1997年4月16日
最終出場2006年10月1日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
堀越高等学校
明治大学
ヤクルトスワローズ (1996 - 1999)
阪神タイガース (2000 - 2003)
読売ジャイアンツ (2004)
東北楽天ゴールデンイーグルス (2005 - 2006)
コーチ歴
東北楽天ゴールデンイーグルス (2007 - 2009)
読売ジャイアンツ (2010 - 2013)
東京ヤクルトスワローズ (2014 - 2018)
東北楽天ゴールデンイーグルス (2019 - 2021)
阪神タイガース (2022 - )
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野村 克則(のむら かつのり、1973年7月23日 - )は、日本の元プロ野球選手(捕手)、プロ野球コーチ。東京都目黒区出身(出生地は大阪府)。
現役時代の登録名は、本名だった巨人時代を除き「カツノリ」。父は野村克也、母は野村沙知代、異父兄は団野村・ケニー野村。他に異母兄が1人いる。
両親と同様、エフエンタープライズがマネジメントを行う。 1973年7月23日、克也と、その愛人だった沙知代(旧名・芳枝)との間に大阪府豊中市で生まれた[注 1]。当初、克也は克則を認知せず、沙知代は非嫡出子となる克則を自身の父親と養子縁組させることを画策したという[1]。後に克則は認知され、また1978年には前妻との離婚が成立した父・克也が沙知代と再婚したことで、この時点で正式な家族関係が成立した。また、沙知代と前夫のユダヤ系アメリカ人との間には2人の息子、団野村・ケニー野村がいたため、異父兄弟となる。 中学時代は父親が設立した「港東ムース」で4番・一塁として3年時に全国ベスト16、世界リトルシニア大会にも出場[2]。堀越高等学校では桑原秀範の指導を受け、一塁手、主将として活躍。1991年春季東京大会で準決勝に進出、修徳高との対戦で本塁打を放つが乱打戦の末に敗退。同年夏の西東京大会も準決勝に進むが、世田谷学園に延長11回の末、惜敗。 卒業後は明治大学へ進学。東京六大学野球リーグでは在学中4回優勝。1993年秋季リーグでは首位打者(慶大山下圭選手と同率)、打点王の二冠を獲得、ベストナイン(一塁手)にも選出された。 1995年秋季リーグでは、2年下のエース川上憲伸らとバッテリーを組み、優勝。同年の第26回明治神宮野球大会でも決勝に進み、井口忠仁らのいた青山学院大学を接戦で降し、優勝を飾る。リーグ通算76試合出場、256打数72安打、打率.281・3本塁打・33打点の成績だった。大学時代の背番号は捕手転向後は父の現役時代と同じ19で、ジョディ・ハーラーが唯一登板した試合に捕手を務めた。後に一年間だけ同僚となる中村豊は大学の同期生。 1995年度ドラフト会議にてヤクルトスワローズから3巡目指名を受け、捕手として入団。克也との混同を避けることから登録名を「カツノリ」とした[注 2]。克則がプロ入りする直前、克也に対して「プロに入りたい」と言ったがスカウトは誰一人として来ておらず、克也から「(プロに入ったら)苦労するぞ、お前。ちゃんとした会社に務めて安定した所へ行け。無理だお前じゃ」と諭したが、克則は「いや、オレはプロに憧れて野球を始めたのだから、例え(プロで)失敗しても悔いはない」と言い返した[3]。さらに「親父だってテスト入団だったじゃないか。人生上り坂下り坂、そして『まさか』だ。やってみないと判らない」と言い、これに克也は「おいおい、オレがここまで来たのは『まさか』かよ」と思ったという[3]。「母親に似たのか口だけは達者で、そこまで言うならとヤクルトスワローズへお願いして指名してもらった」と著書に記している[3]。背番号は33。それは長嶋茂雄に倣ったためだという。なおプロ入り時に明治大学硬式野球部卒ながら、明治大学はまだ卒業していなかった。翌年も卒業の見込みがないことから、プロ野球選手兼大学6年生が確定していた[4]。 1996年シーズンはフレッシュオールスターゲームに出場するが、一軍では古田敦也が正捕手に定着していたほか、控え捕手に野口寿浩もいたこともあり一軍昇格はなかった。入団当時の一軍バッテリーコーチだった八重樫幸雄は「正直に言えば、「プロに入れるレベルじゃないな」と思いました。ただ、気持ちは強かった。「プロの世界でやってやろう」という意気込みは強かったし、「どうすればうまくなるんだろう」という向上心もすごくあったよ。」[5]と述べている。
経歴
生い立ち
プロ入り前
ヤクルト時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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