野村克也
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野村 克也2012年5月
基本情報
国籍 日本
出身地京都府竹野郡網野町(現:京丹後市
生年月日 (1935-06-29) 1935年6月29日
没年月日 (2020-02-11) 2020年2月11日(84歳没)
身長
体重175 cm
85 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション捕手
プロ入り1954年
初出場1954年6月17日
最終出場1980年10月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


京都府立峰山高等学校

南海ホークス (1954 - 1977)

ロッテオリオンズ (1978)

西武ライオンズ (1979 - 1980)

監督・コーチ歴


南海ホークス (1968 - 1977)

ヤクルトスワローズ (1990 - 1998)

阪神タイガース (1999 - 2001)

シダックス

東北楽天ゴールデンイーグルス (2006 - 2009)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年1989年
選出方法競技者表彰
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

野村 克也(のむら かつや、1935年昭和10年〉6月29日2020年令和2年〉2月11日[1])は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身[2]プロ野球選手(捕手)・コーチ監督野球解説者野球評論家。後妻にタレント野村沙知代

プロ野球史における屈指の名打者・名捕手・名監督として知られ、選手と監督の両方で3000試合(いずれも歴代2位)を達成した唯一の人物。当時歴代最多のシーズン52本塁打、戦後初の三冠王をはじめとする数々の記録を打ち立て、実働26年でベストナインを19回獲得(歴代最多)、オールスターゲームに21回出場(歴代最多)。監督としても24年間(うち選手兼任8年)で歴代2位の試合数を重ね、数多の人材と名言を遺した。
概要南海選手時代(1959年1月)

NPB戦後初(史上2人目)の三冠王を達成(世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王)。本塁打王9回、打点王7回、最優秀選手5回は歴代2位かつパ・リーグ最多記録(歴代1位はいずれも王貞治[3]。NPB最多記録として、通算打席数、通算打数、通算犠飛数、通算併殺打数、ベストナイン19回がある。オールスターゲーム21回出場も歴代最多。歴代2位の記録は出場試合数(1位は谷繁元信)、通算安打数(1位は張本勲)、通算本塁打数(1位は王貞治)、通算打点数(1位は王貞治)、通算塁打数(1位は王貞治)。

野球選手としての現役生活は1954年から1980年の27年間にわたり、南海ホークス、ロッテオリオンズ、西武ライオンズでプレーした。うち1970年から1977年の8年間は南海で選手兼任監督を務め、初年度の1970年は選手として全試合に出場し42本塁打114打点を記録。1972年には7度目の打点王となる。1973年にはパ・リーグ優勝監督となるとともに選手として5度目のシーズンMVPに輝いた。兼任の8年間で放った本塁打は200本に上る。

監督として、3204試合(歴代2位)で1565勝(歴代5位)1563敗(歴代最多)を記録[4]。このうち「平成」(1989年1月8日 - 2019年4月30日)期間の勝利数1053は同時代における最多記録[5]。シーズン優勝5回は歴代9位、日本一3回は歴代6位。

選手引退後は1990年から1998年までヤクルトスワローズ、1999年から2001年まで阪神タイガース、2003年から2005年まで社会人野球シダックス、2006年から2009年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めた。2010年から2012年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの名誉監督[6][7]。2010年から亡くなるまでサンケイスポーツの野球評論家。日本体育大学客員教授も務めた。京丹後市名誉市民

捕手を務めながら通算RCWINでも歴代5位を記録した球史に残る名選手であり、本人は「俺は王貞治さえいなければ三冠王だった」と自負している。選手・監督時代を通じ、勝つために様々な工夫や駆け引きを重ねており、野球理論・野球技術の発展に貢献した。

愛称は「ノム」(ノムやん・ノムさん)「ムース」。血液型はB型。「ムース」とはロッキー山脈に生息する「ヘラジカ」のことであり、日米野球で来日したウィリー・メイズが「のそっとしているがいろいろな動きによく反応している」ことから名づけた[8]。また「和製ベーブ」とも呼ばれた[9][10]

生涯で二度結婚しており、2人目の配偶者が野村沙知代(2017年死別)である。沙知代との間に息子・野村克則がいる。前妻との間にも息子が1人いる。継子(沙知代の連れ子)に団野村ケニー野村がいる。

生前、自著で幾度か「何よりも自分は働く人間」と述懐していた通り、幼少の時から亡くなる直前まで、第一線を退くことなく野球を続け、オフや休日にも講演やテレビ出演、執筆活動など数え切れないほどの仕事をこなすなど、仕事に対する執着心は非常に強かった。現役時代は捕手という負担の大きいポジションで歴代2位の出場数(3017試合)を記録し、8年間にわたって選手兼任監督も務めた。

晩年の所属事務所はエフエンタープライズで、継子の団野村が運営するKDNスポーツジャパンがマネジメント代行を行っていた。
経歴
プロ入り前

1935年6月29日、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)に野村要市・ふみ夫妻の次男として生まれる。父の要市は熊野郡下佐濃村(現:京丹後市)の生まれで、網野に出て食料品店「野要」を営んでいた。

ところが、日中戦争に出征した父・要市が1938年11月26日に武漢野戦病院戦病死[11]、さらに母・ふみが1943年に子宮癌、翌1944年に大腸癌を患ってしまう。母は一命をとりとめたものの、手術費用を支払うために店舗兼住宅を売却したことで「野要」は廃業に追い込まれ[12]、一家はたちまち貧困状態に陥ってしまった。その間、野村は兄・嘉明と共に父方の祖父・安治郎に預けられて下佐濃に居たが、母の退院後に一家は網野に戻って借家住まいを始めた。母は戦中は看護師、戦後は丹後ちりめんの織工として働き[13]、また祖父の安治郎が米を分けてくれたため何とか生きていくことはできたが、傷んだ狭小な借家での苦しい耐乏生活を強いられた。


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