野村俊夫
1949年
誕生鈴木喜八
(1904-11-21) 1904年11月21日
福島県福島市
死没 (1966-10-27) 1966年10月27日(61歳没)
職業作詞家、詩人
言語日本語
国籍 日本
ジャンル流行歌、戦時歌謡、歌謡曲、演歌
代表作『暁に祈る』
『湯の町エレジー』
『東京だョおっ母さん』
デビュー作『福島行進曲』
配偶者あり
パートナー古関裕而、古賀政男、船村徹 など
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野村 俊夫(のむら としお、1904年11月21日 - 1966年10月27日)は、日本の作詞家、詩人。福島県福島市出身[1]。本名は鈴木 喜八[2]。 福島県福島市大町の魚屋に生まれる。幼少期、近所には作曲家の古関裕而が住んでおり、5歳年上の野村は兄貴分であり遊び仲間だった[1]。 1924年、20歳の時に福島民友新聞社に入社し、編集部・報道部・文芸欄を担当する。1931年をもって福島民友新聞社を退社[1]。すでにコロムビア専属の作曲家として東京で活動していた古関裕而のすすめで上京する[1]。同年、古関裕而と組んだ初のレコード「福島行進曲」が発売され互いにデビュー作となった[1]。この頃からフリーの作詞家として本格的に活動を開始する。 1939年、藤山一郎のコロムビア復帰第1作目であった「上海夜曲」のヒットにより、コロムビア専属の作詞家となる。作詞家の野村俊夫と作曲家の古関裕而(福島市出身)、歌手の伊藤久男(本宮市出身)の三人は「コロムビア三羽ガラス」と呼ばれた[2]。 1951年頃からは日本音楽著作権協会の理事も務めていた。また、たいへんな酒豪だったという。 2020年9月、日本コロムビアから1988年以来32年ぶりの作品集がリリースされた[1]。
略歴
主な作品
1931年「福島行進曲」(作曲:古関裕而、歌:天野喜久代)
1938年「音信はないか」(作曲:能代八郎、歌:小野巡)
1938年「忠治子守唄」(作曲:服部逸郎、歌:東海林太郎)
1939年「上海夜曲」(作曲:仁木他喜雄、歌:藤山一郎)
1939年「ほんとにほんとに御苦労ね」(作曲:倉若晴生、歌:山中みゆき)[注釈 1]
1940年「暁に祈る」(作曲:古関裕而、歌:伊藤久男)
1941年「宣戦布告」(作曲:古関裕而、歌:伊藤久男、霧島昇)
1941年「皇軍の戦果輝く」(作曲:古関裕而、歌:霧島昇)
1941年「おらんだ草紙」(作曲:古関裕而、歌:霧島昇)
1942年「感激の合唱」(作曲:古関裕而、歌:伊藤久男、二葉あき子)
1942年「世紀の凱歌」(作曲:明本京静、歌:霧島昇)
1942年「一億みんな戦友だ」(作曲:明本京静、歌:霧島昇)
1943年「索敵行」(作曲:万城目正、歌:伊藤久男、霧島昇、楠木繁夫)
1943年「大空に祈る
1943年「憧れの花園」(作曲:加賀谷伸作、歌:霧島昇)
1944年「あゝ紅の血は燃ゆる」(作曲:明本京静、歌:酒井弘、安西愛子)
1944年「いさおを胸に」(作曲:弘田龍太郎、歌:楠木繁夫、松原操)
1946年「裏町セレナーデ」(作曲:古賀政男、歌:霧島昇、二葉あき子)
1947年「旅すがた」(作曲:古関裕而、歌:霧島昇)
1947年「東京のバラ」(作曲:服部逸郎、歌:霧島昇)
1947年「こはくの酒」(作曲:服部逸郎、歌:霧島昇)
1947年「今宵も丘に」(作曲:服部逸郎、歌:霧島昇)
1947年「チェリー・ソング」(作曲:服部逸郎、歌:霧島昇)
1947年「東京の灯ともし頃」(作曲:服部逸郎、歌:霧島昇)
1948年「南の薔薇」(作曲:米山正夫、歌:近江俊郎)
1948年「湯の町エレジー」(作曲:古賀政男、歌:近江俊郎)
1948年「シベリヤ・エレジー」(作曲:古賀政男、歌:伊藤久男)
1948年「若き日のエレジー」(作曲:古関裕而、歌:伊藤久男)
1949年「港の恋唄」(作曲:古賀政男、歌:鶴田六郎)
1949年「ハバロフスク小唄」(作曲:島田逸平