日本の政治家野末 陳平のずえ ちんぺい
生年月日 (1932-01-02) 1932年1月2日(92歳)
出生地 日本・山口県宇部市[1]
出身校早稲田大学第一文学部東洋哲学科
前職大正大学客員教授
所属政党(無所属→)
(新自由クラブ→)
(税金党→)
(自由民主党→)
(新生党→)
(新進党→)
無所属
称号勲二等旭日重光章
配偶者あり[2]
参議院議員
選挙区(全国区→)
東京都選挙区
当選回数4回
在任期間1971年9月13日 - 1995年7月22日
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野末陳平
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野末 陳平(のずえ ちんぺい、本名:同じ、旧本名:野末 和彦〈のずえ かずひこ〉、1932年〈昭和7年〉1月2日[3] - )は、日本の放送作家、経済評論家、政治家。野末陳平事務所代表。
レイク浜松カントリークラブ(引佐観光開発)代表取締役会長。落語立川流顧問。駄句駄句会同人、俳号は「野ざらし」。
参議院議員(4期)、税金党党首(初代)、参議院大蔵委員長、WWF常任理事、サイバー大学客員教授などを歴任した。 父親は鉄道院の役人で、各地の駅を設計していた[1]。母親は岡山県岡山市の出身で[1]、薬剤師になるため上京し、明治薬学専門学校を卒業後、薬局で働いていたとき、見合い結婚[1]。父親が山口県立工業の教師として赴任した山口県宇部市で陳平(和彦)は生まれた[1]。その後父親の転勤に伴い、一家は神奈川県横浜市、千葉県千葉市に移る[1]。1945年7月7日の千葉空襲に遭う。母親は西武新宿線中井駅に近い上落合で長く「トキワ薬局」を経営していた[1]。 静岡県出身。東京都立西高等学校、早稲田大学第一文学部東洋哲学科卒業。早稲田大学時代は道教研究者として有名な福井康順の薫陶を受け、成績優秀につき大学院進学を勧められたという。 「陳平」の筆名は、秦末から前漢に活躍した陳平にあやかったもので、中国の古文・歴史・思想についての著書を多数上梓しているが、福井の影響を受けて道家寄りの姿勢が目立つ(ちなみに野末も道家で、老子や儒教についての著書がある)。 三木鶏郎が主宰する冗談工房 テレビ司会者や俳優、ラジオパーソナリティとしても活躍。若手女性タレントに対し下ネタを連呼する役どころで娯楽番組に出演することも多く、余勢を駆って1968年公開のピンク映画『恐るべき密戯』(監督:木俣堯喬)にも出演した。 また、漢詩だけでなく、姓名判断についても造詣が深かった。その中でも、放送作家時代に文化放送のアナウンサーを務めていた御法川法男に対して、「みのもんた」の芸名を考案したことは有名である[4]。 1969年12月の第32回衆議院議員総選挙に、東京6区から無所属で初出馬するも落選。 1971年6月の第9回参議院議員通常選挙では戸籍上の本名の「和彦」から知名度の高いペンネームの「陳平」に改名した上で、全国区から無所属で立候補したが次々点の52位に終わり落選する。しかし7月に山本伊三郎、9月に村上孝太郎が死去したため、繰り上げ当選した(当選同期には立川談志らがいる)。 以後、連続当選4回。海江田万里を秘書として重用し、「税金関連のエキスパート」を自称した。議員時代の1975年2月25日には、当時タブー視されていた音楽番組における大手芸能事務所とテレビ局の癒着問題を追及するなどして話題を集めている[5][6]。 1977年の第11回参議院議員通常選挙では新自由クラブ公認で全国区から立候補し、再選。 1983年の第13回参議院議員通常選挙では、選挙直前に新自由クラブを離党し、自らが代表の税金党を結党、全国区から東京都選挙区に鞍替え立候補し、トップ当選した。 1989年の第15回参議院議員通常選挙でも東京都選挙区から立候補し、四選を果たす。 1990年にはそれまでの反自民の立場から一転して、税金党を解党してまでして自由民主党に移籍し、総理・総裁の座を狙っていた渡辺美智雄の政科研(旧中曽根派)に加入、有権者から変節と批判された。
来歴・人物
生い立ち
学生時代
タレント時代
政治家時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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