野戦重砲兵第7連隊(やせんじゅうほうへいだいななれんたい、野戦重砲兵第七聯隊)は、大日本帝国陸軍の野戦重砲兵連隊の1つ。軍隊符号は7SA。 第一次世界大戦後、重砲の野戦における使用を具体化するため、野砲兵の旅団砲兵連隊6個を廃止する代償として1922年(大正11年)8月15日、千葉県国府台の旧野砲兵第16連隊 正規の牽引車ではなく、アメリカより購入した農耕用トラクターが使用され、行軍速度も時速8キロと機械化といっても名ばかりであり、運用も経験がなく、用兵 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では、救援活動を行った。 1936年(昭和3年)2月26日の二・二六事件では、第4中隊の田中勝陸軍砲兵中尉は午前2時30分頃、下士官兵12名を起こし、乗用車1台、自動貨車3台、側車1台を指揮して兵営を出発した。早朝、憲兵隊からの連絡により連隊本部はこの事実に気付き、下遠甲太郎大隊長と大橋武夫第4中隊長が連隊長命令により説得に当たり、翌日ないし翌々日には第1中隊に討伐命令が下った。事件が収まった3月末頃、連隊長、大隊長他が待命を受けた。田中中尉はこの年の7月12日死刑となった[1] 1939年(昭和14年)ノモンハン(ノモンハン事件)への出動を命ぜられた。1個中隊でソ連赤軍の砲兵数個中隊の火砲に対抗したが、零距離射撃での敵戦車との戦闘、動かぬ牽引車・自動貨車、大射角に耐え得なかった砲架等の課題を残した。 ノモンハン事件以後、満州東安省斐徳 太平洋戦争(大東亜戦争)勃発後の1942年(昭和17年)11月24日、満州より南方に転用され12月末にニューブリテン島ラバウルに上陸し、第8方面軍直轄部隊となり、剛第一二一三部隊と称した。一方、本体に先立つ9月24日にガタルカナル島へ単独転用された第2中隊は、九二式十糎加農をもって敵飛行場を砲撃するため、射距離を延伸するための装薬を規定より5割増やし最大射程18,200mを遥かに超えた23,000mの射程を得たが、砲架の折損、駐退復座機の故障に逢い、4門の火砲の部品を集めて1門として射撃をするという苦心でも、目標には届かない状況だった。ラバウルの本隊では、第1大隊本部、第1中隊がヨーク島 歴代の連隊長 1.帝都の東江戸川畦 緑色濃き国府台 正義に勇む六百の 健児屯ろす野重七 1940年満州における他部隊の八八式七糎野戦高射砲 1940年
目次
1 概要
1.1 創設直後
1.2 関東大震災
1.3 二・二六事件
1.4 ノモンハン事件
1.5 斐徳駐屯
1.6 太平洋戦争
2 歴代連隊長
3 連隊歌
4 ギャラリー
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
概要
創設直後
関東大震災
二・二六事件
ノモンハン事件
斐徳駐屯
1941年(昭和16年)には、ガス防除演習による事故[3]、1942年(昭和17年)には、機密地図紛失事故[4]、車厰火災[5]、火砲暴発事故[6]が発生した。
太平洋戦争
歴代連隊長
(特記ない限り大佐)代氏名在任期間備考
1立見豊丸大正11年8月15日 - 大正12年8月6日[7]
2中岡弥高大正12年8月6日[7] -
3小出忠義
4林業大正15年3月2日 -
5池野松二昭和3年8月10日 -
6土橋一次昭和6年8月1日 -
7安藤麟三昭和8年8月1日 -
8真井鶴吉昭和9年8月1日 -
9北島驥子雄昭和11年3月28日 -
10鷹司信熙昭和12年12月4日 -中佐
11竹本節昭和14年9月30日 -
12下遠甲太郎昭和17年8月1日 -
11根岸主計昭和19年7月10日 -中佐
12下遠甲太郎昭和20年6月1日 -
連隊歌
ギャラリー
脚注^ 結婚生活は約40日だった。田中中尉が妻の懐妊を知ったのは、獄中であった。死刑判決を受けた7月5日に書かれた遺言書には「神の授けし児は男子なるべし。孝と命令する。」、夫人には「四十日を四十年と思って堪忍してくれ。」と書かれていた。その後、夫人は10月12日、田中中尉が予言したとおり男子を産んだ。
^ その結果、昭和17年頃には遠戦砲兵同士の対戦、連隊将校はその部署の如何によらず、射撃指揮能力は第一級となった。
^ 専門の制毒以外の実毒をあえて演習に使用した。
^ 通常機密地図は、書類箱に入れておくものを演習時に持ち出したことによる。
^ 極寒時に翌日の演習に支障を来さないように、自動車のエンジンを炭火で温めていたことによる。
^ 火砲の分解整備を頻繁に行ったため。